青い蜜柑

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兄に引っ張られ帰るとすぐに、異常なことに気が付く。 店は閉められ、人はいない。 俺たちは店の奥の住居へと足を進めた。 「はは上」 乳母に背中をさすられ泣き崩れる母親。 「遺体は?」 「今運んでおられます」 「痛い?」 「父が切られのだ」 「は?」 「姉上をかばって、切られたのだ!」 は? 「進、新之助」 母が広げた腕の中に俺たちは収まった。 春はもう、すぐそこまで、庭の木は花をたわわにつけ、桜のつぼみの上は雪をかぶっていた。 大安の今日は結納、姉は大好きだった人の所へ嫁ぐはずだった。 兄は、父と笑いながら俺の前を歩いていたはずだったのに。 そして、俺とアイツは兄弟になるはずだった。 だったんだ。 「何でこんなことに!」 俺は拳で床をたたくことしかできなかった。 時は享保、将軍が変わり、この国も変わろうとしていた。 将軍、徳川綱吉の跡を継いだ家宣は三年で家継へと引き継がれるが、病により齢(よわい)八歳でこの世を去る。 跡目のない徳川家は天地を揺らす大騒動となっていた。 「今、なんといった!」 「はっ!尾張徳川、将軍輩出せず!」 「どうするのだ?まさか」 「紀州藩よりそのー」 「その―、ではない、あのうつけが将軍になるというのか?」 「そのようで」 「はー、そのようでじゃなーい!」 なんてことがあったのかどうかはわかりませんが、実際、紀州藩も大騒ぎだったそう。 「何を騒いでいるのだろうなー」 赤子を抱いたこの若者が、八代将軍吉宗である。 四月も中、昨日の天気とは打って変わっていい天気となった早朝、暖かさで桜の花が膨らみ始めていた。 「くっせー」 「すごいにおいだな」 「もうびちゃびちゃ」 「文句を言うな、うるさいのが来る前に調べ上げろ!」 火事場にはまだ青白い煙があちこちから上がっている。すべてが焼き尽くされ、何も残っていない。 だが、それを見定めなければならない役職もある。 ただここは、町役人が入れる場所ではない。 ここから先は、大目付以上の役人が取り調べをするところとなる。 早朝にもかかわらず門の前には、やじ馬が中をのぞき込んでいるのが見える。 「火元はここですね」 「うむ」 「お頭―」 その声に年の行った二人が振り向く。 「これです、間違いないかと」 男は、焼けただれた高炉をのふたを開けた。 「うっ」 思わず鼻をふさいだ。 「一度に多くの香木をたいたか?」 「そうみたいですね」 持ってきたものも鼻を抑えながら言う。 「それで、犯人のめどは?」 「まだだ」 「一応は、息子の話と一致しましたからね」 フーと大きく息をついた頭。 「誰が嘘をついているのか、これからだ、佐竹、それを西方にも持っていけ」 「えー?」 「エーじゃねえ、行け!ちゃんと中身が何か聞けよ」 「わかってますよー」 火事が起きたとの一報は、この屋敷の下働きの者、すぐに町火消しが出た。 近所に燃えひろがぬように“い組”だけではなく多くの纏(まとい)衆が出て消火に当たる。消火と言っても、火が江戸に回らないように、下々の家を壊すのが彼らの役目である。 本来、旗本は自分の所で火を消すのだが、なぜか人は少なく、消すこともできなかったと聞く。 屋敷の前にいる少年はただ泣きじゃくっていたが、い組頭がそばに行くと上の人と話がしたいと声を変えたという。 そして場所を変えその少年の話を聞いた。 大目付や上の人にはまだ知らせないでほしいと。彼の話を一通り聞いてから、親方が話を持ってきたのは江戸町奉行所であった。奉行直々に外に出ることはできないため、数人の与力たちが動き出した。 25人の与力を束ねる筆頭与力大杉が陣頭指揮を執る。 「そういえば、仲人の一橋家はなぜ口を開かぬのでしょう?」 「裏は取れているからな、まずは、あの香木がどこから流れてきたか、それからだな」 仲人なのにその場にいっていないという、それよりそんな話を受けていないと突っぱねた。 一橋家嫡男は勘定奉行であり、まじめ一辺倒の青年、その奉行でさえ、そんな話はないと退けたという。 「お頭、これを」 黒くすすで染まった狐の面、多分着けていたのは女。着物はそこそこだが、わきの下を見ると、体には多くの痣。死を待つ遊女か、その辺の死にぞこないの女を飾り立てたか。 「ああ、化け狐、面か?この出どころと言ってもなあ、まあ一応探してみろ、着物もな」 はっ、と言っては泥をはねながらそこから走っていく。 その泥がかからないように親方の前をふさぐも顔にかかってしまったのを手で拭う。 「屋敷は?」 「とりつぶしにはなるまい、だが彼が持ちこたえることができるか」 「家族といいなずけだった者たちが一瞬でいなくなったのですからな」 「あ、いた、親方、近藤さんが来てほしいと」 「さて、何か見つけたかな」 「それならばよいのですが」 親方はため息をつく男の肩をたたき、歩き出した。 「なんだ、ここにどうやって入り込んだ」 二人は道を開け、頭を下げた。 意気揚々と大股である伊久留さん十代ぐらいの男。大目付、吉田を筆頭に五人の者たちが後ろを固め、その後ろにはねじり鉢巻き姿の者たちが多数ついてきた。 「田野畑、町方風情が何ゆえにここに入る、おお、大杉殿か」 わざとらしいい方をする若者。それでも胃の痛い職柄、上のものの交代は早い。それをわかっているから黙ってあしらう。 「ここを消したのが“い組”にて、こうして外からの侵入者たちを止めておりました」 「手は付けてはおらぬだろうな」 「もちろんでございます」 「ちっ、ここはよい、下がれ」 「はっ、かしこまりました」 「撤収!」とひと声を張り上げ、頭を下げ、皆が通り過ぎるのを見る。 おもむろに背を向け、ピヨピヨと鳥のなく声を出した田野畑。 その声を聴き、あちこちにいたものが手を止め、そこから消えた。 「田野畑」 「はい」 一度皆を返し、話をまとめる、お前と門を守る者だけは中の様子を見ておけ。 「しかしながらお頭」 大杉は耳元でこそりと何か声をかけた。 「後は頼むぞ」と肩をたたきそこを後にした。 「はっ!」と頭を下げる田野畑に背を向けたまま手を振った。 野次馬をかき分け門の外へ出ると、一人の男と目が合った。 「ここにおるとは」 「火が出たんだ、見に来るさ」 「お前の屋敷に行ったのだがな」 「息子たちがおる、何かあったのか?」 「ああ」 親方。 近藤、何があった。 これをと出した手ぬぐいの間には紙切れ。 「後で」 「はっ」 「道すがらお話を」と背中を押した。 「もう来たか?」 「はい、今さっき、吉田殿が」 「ほう、吉田のボンか」 「ははは、覚えておいでですか」 その後ろに、ざっと集まった人たちは何食わぬ顔で、二人の後をついていくのでした。
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