1/1
前へ
/13ページ
次へ

 そして、嫁入りから五日目の朝。  珠が食事を運んでくる前に、白玖がやってきた。白玖が朝早く来るのは初めてのことだ。  白玖とともに、橘花は部屋を出た。鍵がないとはいえ、嫁入りしてから部屋を出るのははじめてのことだった。  珠たちメイドの住まいである屋敷の離れへ向かう。  案の定、庭で洗濯物を干す珠がいた。近くには背の高いメイドがいて、厳しい目つきで見張るように珠を見下ろしている。 「あれはメイド長の(せん)だな」 「彼女、珠を睨んでるように見えますけれど」 「珠の教育係を任されているのは彼女だからな」  洗い終わった洗濯物を、珠がひとつずつ竿に干していく。しかし、なにぶん背が低いので、ひとつ干すのにも時間がかかってしまう。 「遅い。もっときびきび動いてくれなきゃ、仕事前までに全員分終わらないわよ。まったく、あなたが学校に行っているあいだ、私たちが仕事ぜんぶ変わってあげてるんだから、これくらいさっさとやってよ!」  遅いというなら、手伝えばいいのに、と橘花は見ながら思う。 「は、はい。申し訳ございません……」  珠はメイド長の怒鳴り声に怯えながら、一生懸命手を早める。しかし、慌てたせいで、衣をひとつ地面に落としてしまった。 「ちょっと!」  メイド長は金切り声を上げ、手を振りかざした。容赦なく珠を頬を打つ。華奢な珠は地面に崩れ落ちた。  橘花は思わず声が漏れそうになり、慌てて手で口を押さえた。 「ひどい……」  思わず呟く橘花の横で、白玖も厳しい視線を送っている。 「なにしてるの! 早く起きて洗い直して!」 「もっ……申し訳ございません!」  珠は震える声で地面に落ちた衣を拾う。  濡れて色が濃くなっているが、あれはメイドが着ているものだ。笠屋敷家の人間の衣ではない。 「メイド服の洗濯も、珠がすべてやることになっているのですか?」  橘花が白玖に訊ねると、白玖はいや、と首を横に振った。 「メイドたちはそれぞれ、じぶんのことはじぶんでやる決まりだ」 「じゃあ、珠は私の世話だけでなく、同僚の世話までさせられてるってことですね?」 「……そのようだ」  白玖は目を伏せた。珠がこうした仕打ちを受けていることを知らなかったのだろう。 「そういえば、珠が嬉しそうに焼き菓子をもらったと言っていた日、メイド長たちが焼き菓子の話をしていた」 「え?」 「最初は、珠が彼女たちと一緒に食べたのかと思ったが……もしかしたら、珠の持っていたそれを、むりやり奪ったのかもしれない」 「なっ……」  橘花は、珠に焼き菓子のことを聞いたときのことを思い出す。よくよく思い起こせば、ぎこちない返事だったように思う。  ――今さら気付くなんて……。 「とりあえず、証拠はこの目で収めた」  白玖が珠たちのもとへ止めに入ろうと動く。  しかしその前に、橘花が動いた。 「珠!」  橘花の声に、珠が顔を上げる。 「お、奥さま……?」  驚く珠の背後で、メイド長は引き攣った顔をして礼をした。橘花と、その横にいた白玖に気付いたのだ。 「これは、若さま。奥方さままで……」  橘花は庇うように珠の前に立つと、メイド長を睨みつけた。 「あなた、私のお付になんてことをするの」 「あれは……その、教育でございます。この子は覚えが悪くて……」 「教育? 打つのが?」  橘花はメイド長に聞き返す。 「珠は私の世話に関して、なにも問題はない。それに、失敗したからといって、なにもぶつことないでしょう。教育係だからって、なんでもやっていいわけじゃないはずよ」 「それは……」 「珠にじぶんの仕事まで押し付けて……私のお付の件だって、最初はメイド長に任せた仕事だったと聞いたけれど」 「それは……」 「珠」  白玖が珠の手を掴む。袖を捲りあげた。珠の肌には、痣がいくつもあった。白玖は眉間に皺を寄せた。痣を指でなぞると、珠は痛かったのか、びくりと肩を震わせた。 「これは、メイド長にやられたのか?」 「…………」  白玖が問うと、珠は泣きそうな顔をして頷き、そのまま俯いた。 「なっ……珠! あなたよくも私を……」  メイド長は顔を真っ赤にして珠に詰め寄る。すかさず白玖が背中に珠を隠した。  白玖の眼差しに怯んだように、メイド長は言葉を飲んで後退る。縋るようにメイド長は橘花を見た。 「っ……奥方さま、違います! 私ではありません! 珠は嘘をついております。私を陥れようと……」  言い訳を始めるメイド長に、橘花は冷ややかな視線を送る。 「私は、珠の言うことを信じる。この子は嘘は言わないもの」  はっきりと告げると、メイド長は悔しそうな顔をして、小さく舌打ちをした。 「……贄の花嫁のくせに」  メイド長は蔑むような視線を私に向ける。 「…………」  言葉を失くす橘花に、メイド長はふっと鼻で笑った。 「あなた、この屋敷のメイドたちになんて言われてるか知ってる? 毒妃って呼ばれてるのよ。毒で若さままでたぶらかした忌まわしい毒妃。目障りだからさっさと死んでくれないかしら」 「今、なんと言った?」  身震いするほど、低い声がした。  白玖がメイド長の前に立つ。冷ややかな眼差しで、彼女を見下ろした。 「俺の花嫁を罵倒するのは許さな――」  白玖がメイド長を叱りつけようとしたときだった。珠がメイド長の前に飛び出し、その身体を突き飛ばした。 「きゃっ!? ちょっと、なにするのよ!!」 「撤回してください!」  珠は顔を真っ赤にして、メイド長に覆い被さる。 「奥さまは毒妃なんかじゃない! とっても優しいひとです! 撤回して!」  珠は泣いていた。橘花は、声を荒らげた珠に呆然とする。 「た、珠、落ち着け」  橘花と同様、一瞬呆然とした白玖だったが、ハッと我に返ると珠をメイド長から引き剥がした。 「奥さまはだれより素敵なひとです!」  白玖に押さえつけられながらも、それでも珠はじたばたともがきながら、メイド長に叫んだ。 「突然叫んで……なんなのよあなた! 私にこんなことしてただで済むと思ってるの!?」 「珠。大丈夫だ。橘花のために怒ってくれてありがとう」 「う……若さま」  白玖は珠の頭を優しく撫でると、メイド長の前に再び立った。 「ただで済まないのはお前だ」  白玖の眼差しに、メイド長がハッとする。途端に肩を落とし、俯いた。 「浅、今の珠への暴行と花嫁への暴言は、次期当主として到底看過できるものではない」  白玖の口調は厳しいものだった。  本来なら、長としてメイドたちを導かなければならない立場だ。そんな人間がいじめを主導していたなど言語道断である。じぶんへの暴言は置いておいても。 「メイド長は変える。それから浅、しばらくの間謹慎を命ずる」 「…………」 「返事は」 「……はい。申し訳ございませんでした……」  白玖がメイド長に下した処罰は、寛大なものだった。  花嫁のメイドに日常的ないじめを行っていたのだ。ふつうなら、屋敷を追い出されてもおかしくないことである。  しかし、橘花は正式な花嫁ではない。花嫁という位はあるものの、結局は七日後には死ぬ贄である。  だから白玖は、この程度で済ませたのだろう。珠の今後については白玖のことだから配慮があるだろうが、これからのことを思うと、橘花は複雑な気持ちになった。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

66人が本棚に入れています
本棚に追加