靴がなくては、何処へも行けないから

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 興奮した様子で、母が電話をかけてきた。空き家になっている祖父の家の勝手口が開いていたらしい。単身赴任中で父は留守である。一人暮らしとはいえ同じ県内に住んでいる私に連絡したのはナイス判断だ。 「泥棒がいるかもしれない。すぐに行くから、家の中にひとりで入ろうとしないで」  慌ててかけつけた私も、思ったより混乱していたらしい。スマホの代わりにエアコンのリモコンをかばんに突っ込んできてしまっていた。まったくもって情けない。  ひとまず二階からぐるりと確認する。押し入れから、お風呂場の中まで。久しぶりに雨戸を開けたせいで驚いたヤモリが私の足元をダッシュで走り、思わず悲鳴をあげる。散々に大騒ぎをしたにもかかわらず、泥棒の姿は影も形もなかった。  空き家とはいえ、電気も水道も止まっていない。エアコンやテレビといった一通りのものもそろっている。泥棒がホームレスならここに住み着くことだってできたはずだし、家電を持ち出して売り払うことだってできただろうに。とりたてて被害なしというのならやはり、母自身が鍵をかけ忘れたのではないだろうか。  そう考え込んだ私の隣で、母があっと小さく声をあげた。勝手口に置きっぱなしになっていたはずのゴム長がなくなっていると言うのだ。いまどきのお洒落なレインブーツとは違う、年代物の黒い長靴。 「ゴム長って、あれ? おじいちゃんが、裏の畑に農薬を撒くときに履いていたやつ?」 「そうそう。時々、お父さんも履いているのだけれど、今日はお父さんがここに来ていないから思い出すのが遅れちゃったわ」 「わざわざ他人の家に侵入して、中古のゴム長を持っていくとかどういうこと?」 「それ以外の靴は、洋服と一緒にまとめて処分していたもんね」 「何を納得しているのよ。って、ちょっと、これ」  慌てていたせいで気が付かなかったが、古びた百円札が一枚、勝手口の扉の内側にガムテープで貼り付けられていた。まるでゴム長を持っていくお詫びとでもいうかのように。  キャッシュレス決済ができないご老人は多い。でも、さすがに現金派の亡き祖父だってこんな年代物の紙幣で買い物はしなかった。だってこれは、日常的に出回るタイプのお金ではないのだ。このお金を使えるのは、この時代に生きていたひとくらいなのではないだろうか。 「一応聞くけど、この家に百円札なんてあったかしら?」 「いやあ、見た記憶ないし、なかったと思うよ。そもそもおじいちゃんたち、古いお札や切手を集める趣味なんてなかったし」 「そうよねえ」  ぼろぼろになった百円札を見ていると、なんだか不思議な気持ちになってくる。もうずいぶん昔に発行停止された百円札を置いて、ゴム長を持ち去った泥棒もどきは、どこへ向かったのだろう。 「戦後に発行されたお札だから、さすがに兵隊さんのお化けじゃないわよねえ?」 「……さあ? まあ切羽詰まっていたのかな」 「やっぱり靴がないと、あの世に行くのも難しいのかしら」 「そのまま持っていってくれてもよかったのに」 「泥棒じゃないって伝えたかったのかも」 「気を遣うところが間違ってる。不法侵入した後に言われても困るよ」  母と思い思いの言葉を口にしながら、念のため、家の掃除をする。マナーを守って土足では入室しなかったのか、あるいは既に足がなかったのか。理由はわからないが、廊下がひどく汚れているということもない。正直、ぞうきんが真っ黒になることも覚悟していたので、それだけはほっとした。 「まあ、こういうこともあるでしょ」 「かもね。とりあえず危険はなさそうなら何でもいいや」  朝の電話の金切り声とは異なる、穏やかな母の声。耳鳴りのような蝉の声が響き続ける、夏も終わりかけのある日の出来事だった。
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