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第8話 困った副社長
「あっ、今、何時? もしかしなくても、日付が変わっているよね」
「うん。早智の寝顔を見ていたら、アッと言う間にね」
「そういう戯言は今、聞きたくないの」
というよりも、茶化さないでほしかった。
「戯言じゃないよ。それだけ早智は疲れていたってことだから。どう? 少しは疲れが取れた? 一応、シーツやマットレスは上等なものを使っているから大丈夫だと思うけど」
「……お嬢様扱いはしないで」
「ごめん。でも、僕のは他の奴らとは違う。早智が大事なんだ」
あえて“心配”という言葉を使わなかったのは、私への配慮だ。その言葉が一番、嫌いなのを雪くんも知っているからだった。
“心配”という言葉で私を縛る、高野辺家の人間と付属している者たち。今も私を“心配”しているのだろうか。
高野辺家の名前に傷を付けないか、“心配”しているに違いない。
「それに、多分だけど、倒れたのは仕事の疲労とストレスだろうね。入社したては緊張し通しだから。あとは小楯たちからの圧力かな」
確かに、アレは怖かった。
「雪くんはやっぱり小楯さんたちから……アプローチをかけられていたの?」
「まぁ、独身で副社長なんかやっていると、どこもそうだって聞いたよ」
あからさまに非はない、と言いたいらしい。別に責めてなんていないのに。
「それはともかく雪くん。いい加減、何時か教えて。あとここは何処なの?」
明らかに隠しているのがバレバレだった。
ベッドがあることから寝室だと分かるのに、時計が一つもないのは不自然である。
「ここは僕の部屋。副社長として相応しい部屋を、と会長が用意してくれたんだ」
「それなら尚更、時計がないのは何故? 私に知られたら、そんなにマズいことなの?」
「……早智がどういう行動を取るのか、だいたい分かるから」
つまり、雪くんにとって困る行動、というわけだ。
「例えば?」
「高野辺家に帰ろうとする」
「替えの服がないもの。仮に、ここに住むことになっても、一度は必ず帰らなければ。それに仕事だって……」
そうだ。仕事……っ!
「どうしよう。私、何も……!」
「大丈夫。今日は休ませるって連絡しておいたから」
「雪くんが?」
聞いた私も私だけど、平然と頷く雪くんも雪くんだった。
「だって早智は、もう営業課の社員じゃないんだ」
「え?」
「僕付きの秘書になったんだよ。そう言ったじゃないか」
あれは……方便じゃなかったの?
思わず額に手を置くと、その隙を付かれてしまった。視界が悪くなった私は雪くんの手に気がつかず、肩をトンッと押された。
そしてそのまま押し倒される。
「だから初仕事をあげるよ。今日は一日、この部屋でゆっくり休むこと。いいね」
***
何が初仕事だ、と思いながらも、甘い誘惑には勝てなかった。
確かに雪くんの言う通り、色々とあり過ぎて、精神が疲弊していたらしい。
押し倒されてドキドキしたのに、視界を雪くんの大きな手に塞がれた瞬間、私は落ちた。そう、眠りに。
嘘でしょう? と思うかもしれないけれど、本当だった。
目が覚めた時、愕然となったほどである。幸い、最初の目覚めと違って、すぐに雪くんは現れなかった。
多分、会社に行ったのかもしれない。私と違って、副社長の替えはいない。一日休んだから、大変なことになるのは目に見えていた。
けれど今の私にとっては好都合だった。幸いにも、雪くんはこの部屋に時計を戻しておいてくれた。
時刻は二時。カーテンを開けると、日は登っている。つまり十四時。
私は雪くんがいないことをいいことに、室内を物色した。
「私の荷物をどこにやったの?」
あの時の雪くんの反応から、私を帰したくないのは分かっていた。理由は簡単だ。
「きっと怒っている。お父さんも、お母さんも」
雪くんの言い分なんて、きっと聞かなかったんだろう。けれど雪くんは強引に事を進めたに違いない。
「今、帰ったら、会社を辞めろって言うんだろうな」
でもね、雪くん。逃げてばかりはいられないんだよ。自分の意思を通したいのなら、真正面から戦わないと。
忘れちゃった? 私たちの出会いも、そうだったじゃない。
「私は逃げないよ」
クローゼットの中から、茶色い鞄を見つけた瞬間、私は口角を上げた。
***
都心から一時間、という位置にあるというのに、我が家だけ時代錯誤のようだった。
それは仕方がない。何せ身内が近くに住んでいるのだから、地方の田舎と何一つ変わらなかった。場所がたまたま都心に近いというだけで。
「おかえり、早智」
玄関を開けると、早速お母さんが姿を現した。まるでゲームに出てくる中ボスのようである。ラスボスはお父さんかな。
穏やかな顔で出迎えてくれるのもまた、不気味だった。
「ただいま」
「名雪くん。今は白河さんだっけ。副社長だなんて、凄いわね」
それはお母さんです。雪くんが説明したに違いないだろうけれど、それを持ち出して何を仕掛けてくるつもりだろう。
「本当にお付き合いしているの?」
「うん」
「入社して間もないのに?」
「同じ会社にいるんだから、当然、顔を合わせるでしょう? ビックリしちゃった。告白もされて――……」
「秘書に、だなんて新卒の早智に務まるの? それだったら伯父さんが経営している会社に務めるのと、そんなに変わらないと思うけど?」
だからそんな会社、さっさと辞めなさい、という副音声が聞こえるようだった。
「そうかな。好きな人の傍にいられるのといられないのとじゃぁ、結構、違う気がするんだけど」
「……本気なの? 早智」
「うん。ただ、この家を出たいから言っている訳じゃないんだよ、お母さん」
私がここまで強気に出られたのは、『今度は僕がって』言っていた、雪くんの言葉を信じたかったからだ。
何せ雪くんはこの家の事情も、私の想いも知っている。
だからきっと、何かあっても助けに来てくれる、とそう確信していた。
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