別離

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別離

 バスケ部の大会が終わり、3年生だった浩平と朔也は6月末で部活を引退した。期末テストを終えたその日、朔也は浩平と正門で別れて真っ直ぐ帰宅した。今日は男は競艇に行っているはずだった。朔也はすっかり安心して帰宅し玄関の鍵を開けようとしたが、施錠されていないことに気づきドキッとした。 「今日はずいぶん早いんだな」  いきなり背後から声が掛かり背筋が凍りついた。 「なんで……?」  振り向いて言葉にならない声を上げると、2レース目で有金全部、突っ込んだらスッちまったと男は言った。 「ツイてねぇやと思って帰ってきたらタバコも切らしてて買いに行ってた。たけど……お前も帰ってたんなら悪くもねぇな」  下卑た笑いを浮かべて男が朔也の肩に手を回し、玄関の中に連れ込まれた。恐怖と嫌悪感で足がすくみ上がった。 「たまには場所変えるか?いつもお前の部屋じゃ飽きるだろ?」  そう言われ居間の奥の四畳半の部屋に連れて行かれた。母親と男の寝室だった。畳の上には布団が敷きっぱなしになっていた。 「まあ座れよ。いつもベッドだからたまにはこういう布団でヤるのも……」  朔也は吐き気がしてきた。男が話している途中で四畳半の部屋を飛び出そうとしたが、男に後ろから肩を掴まれ引き戻された。 「逃げられねぇよ。3年で部活もお終い。家に遅く帰る理由もなくなっちまった。残念だったなあ」  また下卑た笑いを浮かべ、男は朔也に抱きつき耳元でそう囁いた。朔也はゾッとして男の腕から逃れようと身じろぎしてこう叫んだ。 「嫌だ……!誰がアンタなんかと……もうアンタの言いなりにはならない!」 「なんだ?もういっぺん言ってみろ!」  男の張り手が飛んできた。二度、三度と頬を張られ、朔也は布団の上に倒れ込んだ。男は力尽くで朔也の身体を捩じ伏せると、自分の下に組み敷いて怒鳴った。 「いつからそんな生意気な口を聞くようになった?俺に逆らえると思ったら大間違いだ!今からよーく教えてやる!」  いきなり朔也のベルトに男の手がかかり、外したベルトを使って両手首を頭の上できつく縛り上げられた。手首にベルトが食い込み、外そうともがくと皮膚が擦れてヒリヒリとした痛みが走った。両手の自由が効かない状態でズボンを下着ごと下ろされ、朔也は恐怖で声も出なかった。 「いまさら後悔したって遅いからな?」  男は自分のベルトに手をかけズボンを下ろすと、そそり立ったものに自分の手を添え朔也の口元に持っていった。 「咥えろ。しゃぶるんだよ……ほら」  グイと朔也の唇に自分のものを押し当て、朔也の頭を左手で鷲掴みにして無理矢理口の中に押し込めた。 「ん……っ……んんっ……」  男が腰を動かすと喉の奥まで男のものが入ってきて、朔也は吐きそうになるのを必死に堪えた。目に涙が滲んだ。 「お前、相変わらずヘタクソだなあ……まあ時間はたっぷりあるし、ゆっくり仕込んでやるから」  そう言って腰を引き、朔也の口の中から自分のそれを引き抜いた。朔也はゲホゲホと激しく咳き込んだ。男は朔也のカッターシャツのボタンを外し胸をはだけると、鎖骨の下の柔らかい部分に執拗に痕を残していった。朔也はすっかり抗う気力を失くして、されるままになった。なんの前触れもなく男の硬いものが朔也の中に入ってきた。いつもより数段乱暴に扱われ、激しい痛みに悲鳴のような声を洩らした。男が激しく腰を振ると脳天を貫くような痛みが襲ってきて気が遠くなった。このまま気を失ってしまえたらどんなに楽か。地獄のような時間が永遠に続くような気すらして朔也は絶望した。    張られた両頬の腫れは翌日になっても引かず、ベルトで締め上げられた手首には擦り傷と痣ができていた。既に制服は夏服でカッターシャツ一枚。リストバンドをすればなんとか隠せたが両頬の腫れは隠しようがなく、身体のダメージも相当で、その日は学校を休むほかなかった。男は今日は朝早くから競輪に出掛けたようだった。  両頬の腫れに母親の眞美子が気づき、あの人にやられたのと訊かれた。朔也は黙って目を伏せ今日は学校休むと言った。連絡だけしておいて、体調が悪いからって言ってくれればそれでいいからと言って麦茶を飲んだ。 「その手首の痣はどうしたの?」 「……」 「何があったの?お母さん忙しくて、朔也の話ちゃんと聞けてなくって……ごめんね」 「母さんは」  朔也は言った。 「アイツと俺、どっちが大切?」  眞美子が言葉に詰まると、朔也はふっと笑った。 「母さんを傷つけたくなくて、ずっと黙ってたけど……俺、アイツと暮らすのもう無理。心も、身体も」  朔也は泣き笑いのような表情を浮かべて訴えた。 「アイツがこの家に入り込んできてからずっと、俺が小2の時からずっと……俺はアイツに酷い目に遭わされてた。母さん、気づかなかった?」 「酷い目って……殴られたりしてたの?」  朔也の目から涙がポロポロと溢れた。 「殴られるだけならまだマシだよ。俺はアイツに……乱暴されてたんだ。もうずっと。7年間……ずっと」 「乱暴って、まさか……」  眞美子がにわかには信じられないと言った顔でそう言った。朔也は泣きながら訴えた。 「昨日、ベルトで縛られて。無理矢理……させられて。この痣もそれでできた」 「本当なの?あの人がそんなことを……?」  眞美子は茫然とした顔で朔也を見つめた。 「もう……これ以上、アイツと生活するなんて……俺、耐えられない。こんな生活が続くなら……」  死んだほうがマシだと泣きながら訴える息子の姿を目の当たりにして、眞美子はようやく事態を重く受け止めた。 「……ごめんね朔也。辛い思いさせてごめんね」  そう言って朔也に近づき両腕で抱きしめた。 「あの人とは別れる。もう朔也を酷い目に遭わせたりしない。お母さん、ちゃんと考えるから。だから死ぬなんてもう二度と言わないで」 「母さん……」 「先生、あの……村上くん今日、具合が悪くて欠席ですか?」  浩平は昼休みに担任にそう尋ねた。 「体調不良だそうだ。お母さんから連絡があった」 「そうですか」  浩平は心配になった。昨日はあんなに元気そうだったのに。テスト終わってよかったねって、嬉しそうだったのに。ひょっとしたらテストが終わって気が抜けて疲れが出たのかな?そんなことも考えた。朔也がいない学校はつまらなかった。明日は元気に登校してくれるといいなと思った。  浩平はなんだかんだで朔也のことが気になり、放課後、初めて朔也の家を訪れた。以前、朔也は自分の家は貧乏だからと言っていた。古い二階建ての木造の家で、玄関のガラス戸にはヒビが入っており、テープで補強してあった。呼鈴を鳴らすと、父親らしき人物が出てきた。朔也のダチ?とつまらなさそうに訊かれた。まだ夕方にもなっていないのに、父親が家にいることを浩平は不思議に思った。 「はい、朔也くんのクラスメイトで五條と言います。朔也くん……具合どうですか?」 「具合なんてどこも悪くねぇよ。腫れた顔見られるのが嫌なんだろ?」 「腫れた顔……?」  言われた意味がよくわからなかったが、浩平は今日の分の授業のノートを持ってきましたと言って手渡すと、お大事にって伝えてくださいと言って頭を下げ、来た道を戻った。  浩平が帰って行く姿を、二階の自室の窓から朔也はそっと見送った。追いかけて行って全て打ち明けてしまいたい衝動を押し殺すのに必死だった。話したところでこの現実から逃れられるわけでもない。自分も浩平もまだ子供で、どうすることもできない。朔也の目から涙が溢れた。後から後から止めどなく溢れた。  その日の夜、村上家では眞美子と男が長い間、口論になっていた。朔也に対して酷い行いをしていたことを責めると、男は開き直って朔也もいい思いをしたんだから別にいいじゃないかと言った。眞美子はそれを聞いた瞬間、この男は人間のクズだと思った。7年間も見抜けなかった自分を情けなく感じたし、朔也に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。別れてくださいと眞美子は男に言った。あのガキのせいか?お前あのガキに妬いてるんじゃないのかと、男はまるで的外れなこと言った。別れ話はもつれにもつれ、眞美子は今すぐ出て行ってほしいと言ったが男はなかなか承服しなかった。眞美子はならば朔也を連れて自分が出て行くと言い切った。これ以上あの子を苦しめないでほしいと。眞美子の決心は固く、一筋縄では行きそうにないと感じた男はチッと舌打ちすると、俺は諦めないからなと捨て台詞を残してその夜、家を出て行った。  翌日になり両頬の腫れはだいぶ引いてきたので、朔也は両手首にリストバンドを嵌めて登校した。手首の痣は当分消えそうになくやむを得なかった。 「おはよう。昨日ノート届けに家まできてくれたんだね。助かったよ、ありがとう」  朔也は浩平に礼を述べた。ううん全然と言いながら浩平は朔也の顔に着目した。言われてみれば確かに少し頬が腫れていた。両手首のリストバンドにも気づき、それどうしたのと尋ねると、朔也はああこれ?昨日引き出しから出てきたから久々に嵌めてみただけ。たまにはこういうのもいいでしょと笑いながら言った。それ以上のことは訊けなかった。  3時間目に理科室で実験があり、色とりどりの試薬を使った実験が行われた。出席番号順で組まれた班ごとに実験をしていたのだが、朔也の班の男子たちが試薬の入ったビーカーを持ったままふざけ出した。じゃれあっているうちに朔也にぶつかってきて、ビーカーから溢れた試薬が朔也の左腕にかかった。 「わあ!村上くん、悪い!大丈夫?」  ぶつかった生徒が朔也にそう詫びた。試薬そのものはさほど害のあるものではかったが、手首に嵌めたリストバンドの中まで染みてきて、男にベルトで締め上げられた際にできた擦り傷に沁みてヒリヒリと痛んだ。 「……大丈夫。気にしないで?」  朔也がそう言うとその生徒はごめんねと言って悪ふざけをやめた。授業が終わると朔也はトイレの洗面台でリストバンドを外し傷を確認した。やはり試薬がよくなかったのか傷口がみみず腫れのように腫れ上がっていた。取り敢えず水道水で傷口を流してみるとヒリついた痛みが走った。帰ったら薬を塗ろうと思った。試薬まみれになったリストバンドを水で濯いでいると、それどうしたの?と後ろから声が掛かった。浩平だった。 「さっき理科室で試薬がかかっちゃって。それで……」  朔也が言い訳をすると浩平はそれだけでこんな痣にはならないでしょと咎めるような口調で言った。 「急にリストバンドなんて嵌めて来て……おかしいと思ってたんだ。この痣と傷、一体どうしたの?」  こっちもそうなんじゃないのと言って朔也の右手を取りリストバンドを外した。やはり痣と擦り傷ができていて、浩平は眉を寄せた。 「何があったの?……誰かにやられたの?」 「……」 「とにかく保健室で手当してもらおう?」 「それは……嫌だ」  保健室に行けば養護教諭の千春に事情を訊かれるに決まっていたし、本当のことが言えるはずもなかった。 「ちょっと……家でいろいろあって。でも浩平にも話したくない。2〜3日すればそのうち消えるから。大したことないから。だから誰にも言わないで?」  朔也は浩平にそう懇願した。家庭のこととなると貝のように口を閉ざす朔也からは、それ以上のことは聞けそうになかった。 「……わかった。誰にも言わない。約束する」  そう言って右手にリストバンドを嵌めてやると、行こう?4時間目始まるよと言って朔也の肩を抱き教室に戻った。  あと数日で学校は夏休みを迎える。部活を引退した今、夏休みに入れば朔也と会う機会はグッと減る。浩平はなんとなく頼りないような気持ちになった。  あれから男は執拗に家を訪ねてきた。諦めないからなというのは本気だったらしく、昼夜を問わず玄関のガラス戸を叩いて中に入れるよう大声で喚き散らした。近所の住人から警察に通報されることも何度かあった。困り果てた眞美子は警察や役所に相談をしに行き、一つの提案をされた。遠方への引っ越しだった。  朔也の身の安全を第一に考え、眞美子は仕事を変えて引っ越しをする決断をした。朔也の転校もあったし二学期に間に合うように動くにはタイミング的にも今がベストだった。お盆休みを過ぎた辺りに眞美子は朔也に引っ越そうと思うと話をした。そうすればもうあの人に怯えて暮らすこともなくなるからと。いつ?どこら辺に越すの?と朔也は尋ねた。できれば二学期に間に合うようにと眞美子は言った。引っ越し先は眞美子の兄を頼ることにしたので栃木だと言われた。あの男と離れられるのは願ってもないことだったが、同時に浩平とも離れなければならないのだと思うと、朔也は全く喜べなかった。朔也の中で浩平はかけがえのない存在になっていた。友達という言葉では片付けられないほど、浩平のことが大切だった。朔也にとってその浩平と離れ離れになるのは身を引き裂かれるようなことだった。しかしあの地獄のような日々にはもう耐えられそうになく、朔也は眞美子にわかったありがとうと告げた。  引っ越しは8月29日に決まった。前日の夜に朔也は浩平を学校近くの河川敷に誘った。花火をしないかと言って呼び出すと、浩平はいいねと言って乗ってきた。スーパーで買った花火のセットで一通り遊んだ。花火にはしゃぐ浩平の姿を朔也はじっと見つめた。目に焼き付けておきたかった。最後に二人は並んでしゃがむと線香花火をした。先に浩平の花火の火が落ちた。あー、と浩平は言って、朔也の花火が落ちるのを二人で見つめた。程なくしてぽとりと落ちて、花火は終わった。 「俺……引っ越すことになった」  朔也が唐突にそう言った。急にそんなことを言われて浩平は大いに戸惑い、朔也に質問を投げかけた。 「……え?なんで?いつ?どこに引っ越すの?」 「引っ越しは明日。場所は栃木としか言えない」  朔也は短くそう答えた。明日?と浩平は言った。前から決まってたんじゃないの?どうして言ってくれなかったの?責めるような口調でそう訊いた。 「いろいろ事情があって……急に決まったんだ。ギリギリまで黙っててごめん」 「俺……朔也と離れるのは……嫌だ。せめて住所、教えて?栃木ならここから会いに行けない距離じゃないし」 「ごめん。誰にも教えないように母親から言われてるから」  しばらく沈黙が続いた。 「朔也は……それでいいの?俺とこのまま縁が切れても構わないの?俺ら親友じゃなかったの?」  浩平はそう言った。泣きそうな顔をしていた。浩平が自分のためにそんな顔をしてくれていることが、朔也は震えるほど嬉しかった。 「浩平……」  朔也は浩平の頬にそっと手を伸ばすと、顔を近づけて唇を重ねた。浩平は目を見開いて尻餅をつき身動きできずに固まった。浩平にとって初めてのキスだった。きゅっと結ばれた浩平の唇を朔也は舌で優しくなぞり、唇の隙間から舌を差し入れた。浩平は目を閉じた。何が起きているのか理解が追いつかなかった。これは本当に自分の知っている朔也なのだろうかとさえ思った。朔也の舌が自分の舌を絡め取るのを感じた。キスに応えるには浩平は経験がなかったし、どうしていいのかわからずただされるままになった。長い間そうして唇を重ねて、ようやく朔也は唇を離した。 「今までありがとう。多分もう会うことない。俺は……浩平との時間、ホント楽しかったよ」  そう言って立ち上がると終わった花火の燃えかすと水の入ったバケツを持って、河川敷を後にした。その後ろ姿を浩平は見えなくなるまで見送った。なんでだよ、なんなんだよと呟きながら。
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