友達

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友達

 桜が散った後の中学校の校庭では、体育の授業が行われていた。年々春が短くなっていき、その日も4月にしては太陽がじりじりと照り付け、持久走をするには良いコンディションとは言い難かった。  5,000メートルまであと少しというところで、男子にしては色白の生徒が一人、ぱたりと倒れた。既にゴールしていた背の高い男子生徒が、倒れた生徒に心配そうな顔をして駆け寄った。 「朔也、大丈夫?」  そう声をかけると、朔也は黙って頷いて身体を起こしたが、まだ足元がふらついていた。 「肩貸すから。保健室で少し休んだほうがいい」  背の高い生徒が体育教師に保健室行きます!と告げ、朔也に肩を貸してゆっくり校内の保健室に連れて行った。  引戸を開け、養護教諭の佐藤千春に事情を説明すると、軽い熱中症かもしれないと言われ、経口補水液を飲んで少し横になるよう言われた。 「浩平、ありがと。少し休めば大丈夫だから。授業戻って?」  浩平と呼ばれた背の高い生徒は、村上くんのことよろしくお願いしますと千春に伝え、ゆっくりねと朔也に声を掛けて校庭に戻った。 「五條くんは、ホントに面倒見がいいわね」  朔也をベッドに寝かせながら、千春がそう言って笑った。村上くんと五條くんは、中学からのお友達?そう訊かれ、朔也は頷いた。 「1年の時に友達になって、クラス替えあったけど2年も3年でも同じクラスで」 「そう。だから二人、仲がいいのね」  授業が終わるまでゆっくり寝てらっしゃい、千春はそう言うとベッドのカーテンを半分引いてくれた。朔也は窓の外でストレッチをしている浩平の姿を目で追いながら、出会った頃のことを思い出した。  桜が散り始めた頃に入学式があった。周りが真新しい学生服に身を包み体育館に集まっている中、朔也は少し古い型の学生服を着て式に臨んだ。朔也は母子家庭で育った。裕福とは程遠く、その学生服も近所の卒業生のお下がりだった。父親のような存在もいるにはいたが、いわゆる内縁の夫で母親とは入籍はしていなかった。まともに働きもせずギャンブル三昧でヒモのような生活を送っている男が、朔也は大嫌いだった。  制服も学生鞄も体操服も体育館履きも、全て卒業生のお古だったし、型が古いのでやはり周りからは浮いていた。それでも母親に恥ずかしいとは言えなかった。  ひと月経っても朔也に友達らしい友達はできなかった。いじめられているわけではなかったし、クラスメイトとは挨拶も交わすし最低限の会話はするが、友達だと胸を張って言える関係性は誰とも築けずにいた。  その日はみっちり5時間目まで授業があった。外は雨が降っていた。昇降口の下駄箱には、何本もの色とりどりの傘が掛かっていた。同級生たちの母親が届けにきてくれたんだろうと朔也は思った。働き詰めの自分の母親が届けにきてくれるはずはなく、やはり自分の下駄箱には傘はなかった。靴を履き替え学生鞄を頭に乗せて雨を避けながら帰ろうと昇降口を出たところで、後ろから声が掛かった。 「村上くん!」  足を止めて振り返ると、クラスメイトの五條浩平が傘を持って立っていた。 「傘ないの?よかったら持ってって」  そう言って透明のビニール傘を差し出してきた。 「でも、五條くんが濡れちゃうよ?」  朔也がそう言うと、浩平はにっこり笑って鞄からネイビーの折り畳み傘を取り出した。 「大丈夫。俺、いつも置き傘してるから」 「いいの?」  遠慮がちにそう言いながら、朔也は差し出されたビニール傘を受け取った。 「うん。それビニ傘だし、返さなくていいから!」 「ありがとう……」 「村上くんは家、どの辺なの?」 「梅原二丁目」  そっか俺とは逆方向だ、浩平は残念そうにそう言うと、じゃあまた明日!と笑って手を振り、折り畳み傘を広げて昇降口から出て行った。入学して以来、友達と呼べるような生徒は周りには一人もいなかったし、初めて友達ができたような気がして、朔也は嬉しい気持ちでいっぱいになりながら帰路についた。  家に着き浩平から借りた傘を大事そうに閉じて、玄関の鍵を開けようとすると、施錠はされておらず朔也は緊張した。玄関の中に入り傘立ての中に借りた傘を入れ、靴を脱ぎ玄関を上がった。引戸を少し開けて中の様子を窺うと、あの男が居間に寝転がってテレビを観ていた。気付かれないようそっと階段を上がり、自室に引き上げようとすると、階下からガラリと引戸が開く音がして、男が追うように階段を上がってきた。 「何だお前。ただいまもなしか?挨拶もできないなんてロクなもんじゃねぇな!」  男がそう言った。まだ明るいうちから酒を飲んでいたらしく、アルコールの臭いが朔也の鼻をついた。  宿題あるからと朔也が言って自室の扉を閉めようとすると、男は無理矢理ドアの隙間に手を入れこじ開け、中に入ってきて後ろ手にドアを閉じた。 「なあ……いいだろ?母ちゃんまだ帰らないし、いつもみたいに……な?」  そう言って朔也に抱きつき、強引にベッドに押し倒した。朔也の身体は蛇に睨まれた蛙のように固まり、抗うことができなかった。男はハァハァと荒い呼吸をしながら朔也の学生服のボタンを外し、カッターシャツを脱がせると、執拗に肌を撫で回し唇を重ねてきた。朔也はきゅっと唇を結んだが、男の舌が唇を割って中に入ってきた。唯一の抵抗も虚しく終わった。きついアルコール臭に朔也は吐き気がした。男の手がベルトに掛かり、ズボンと下着を下ろされると、朔也は身体を強張らせて身構えた。  男がこの家に入り込んできて間もなくの頃から5年間、ずっとこうして辱めを受けてきた朔也は、抗っても無駄だということを充分にわかっていた。抗えばかえって痛い思いをすることも。幼少の頃は自分の身に何が起きているのかすらわからなかったが、大きくなるにつれこの異様な状況がどういうことなのか自覚し、誰にも助けを求めることはできなかった。  酒臭い男に組み敷かれ、されるがままになっている自分は人形なんだと思い込もうとした。男の硬く熱いものが強引に朔也の中に入ってきて、その部分に痛みが走った。声を立てれば男がますます興奮し乱暴に扱われることはわかっていたし、そうなると身体のダメージは酷く翌日まで響き、学校を休まなければならなくなることもあった。朔也は息を殺してじっと耐えた。早く母親が帰ってくる時間になればいいと思った。なぜか浩平の笑顔が浮かび、涙がつうっと頬を伝った。  その夜、朔也は家人が寝静まるとそっと階段を降りて、浩平から借りたビニール傘を傘立てから取り出すと部屋に持ち帰った。傘を広げて乾かして明日になったら浩平に返そう、これをきっかけに仲良くなれたらいいなと朔也は思った。広げた傘を眺めていると嫌なことも忘れられるような気がした。  翌日、校舎の廊下で浩平に昨日はありがとうと言って傘を返した。返さなくてもよかったのにと浩平は笑って言った。でもわざわざありがとうと、浩平は言ってくれた。 「そうだ!村上くんも置き傘したら?」  そのように提案されたが、朔也はそもそも折り畳み傘を持っていなかった。必要のないものは買ってもらえなかったし、母親にねだることも憚られた。  返答できずに困ったような顔をして笑うと、浩平は学生鞄から昨日とは別の青い折り畳み傘を取り出して朔也に差し出した。 「俺、二本持ってるから。よかったらこれ、置き傘にして?」 「でも……」  朔也がためらってそう言うと、浩平は笑顔になった。 「古いヤツだから、遠慮しないで?考えてみたら折り畳み傘そんな何本も持ってても仕方ないし。役立ったほうが傘も嬉しいだろし」  そう言って青い折り畳み傘を朔也に持たせてくれた。 「ありがとう。五條くんは優しいね」  浩平はニコッと笑った。 「浩平でいいよ、村上くんのことも下の名前で呼んでいい?……朔也、だよね?」  浩平が自分の名前を覚えてくれていたことに驚き、そして嬉しかった。うん、ありがとうと朔也は微笑んで言った。入学して初めてできた友達だった。大事にしようと思った。 「浩平!」  別のクラスメイトに名前を呼ばれ、じゃあまたねと手を振ると、浩平は教室の中に入って行った。浩平は明るく優しい性格で誰からも好かれるタイプだったし、友達も多かった。そんな彼が自分のことを気に掛けてくれただけでも、朔也は嬉しかった。  その日も朔也は男に組み敷かれた。二日続けての行為は身体への負担が大きかった。抵抗を試みたが男の力に敵うはずもなく、かえって痛い思いをしただけだった。ダメージは相当で翌日、朔也は具合が悪いからと母親に言って学校を休んだ。階段の昇り降りすら辛かったが、男に辱めを受けていることを決して母親に悟られてはならないと思った。  朔也が今日は欠席だとホームルームの時間に知り、浩平は気になった。そういえば昨日も少し顔色が悪かった。朔也が欠席をするのは珍しいことではなかったし、何やらあまり丈夫でないらしいとは聞いていた。体育の授業を見学することも多かった。浩平は友達になったばかりの朔也のことが心配になったが、友達になりたての朔也の家を訪ねることはためらわれた。  ある日の放課後、教室で帰り支度をしていると、朔也!と声が掛かった。浩平だった。バスケ部のユニフォーム姿だった。 「今から部活?」 「うん、ゼッケン教室に忘れてきちゃって。取りに来た。朔也は部活は?」 「んー。一応美術部に入ってることになってるけど……実質帰宅部、かな?」  真っ直ぐ帰っても嫌なことしか起こらないのがわかっていたし、本当は拘束時間の長い体育会系の部活に入りたかった。しかし男からいつ乱暴されるかわからず運動部は体力的に厳しかったし、家計のことを考えると道具が必要な部活には入部できなかった。 「へぇ。あんまり部活に興味ないの?」 「ない訳じゃないけど……まあ、いろいろ」  朔也は言葉を濁した。 「高校生だったらよかったのにな。そしたら空いた時間バイトに充てられるんだけど」 「高校生か。朔也は早く中学卒業したいの?」  浩平が興味深そうに訊いてきた。 「うん。早く大人になりたい。大人になって、それで……」  自由になりたい、と言いかけたがやめておいた。どういう意味かと問われたら、返答しようがなかったから。 「……それで?」  浩平は続きを促したが、朔也は微笑んで首を振った。 「ううん、ただ大人ってカッコいいなって、ちょっと思っただけ。……浩平、早く戻らなくていいの?」 「そうだった!ゼッケン取りに来たんだった!じゃあ戻るね、また明日!」  わたわたと浩平が教室を出て行くと、朔也はふうとため息をついた。早く帰っても男がいたらまた迫られるのは目に見えていたし、かと言って行く宛などどこにもなかった。  ふと、少し浩平の部活動の様子を見てみたくなった。体育館に足を運び、ギャラリーに上がって上からコートを見下ろした。浩平の姿があった。キュッキュとバスケットシューズの擦れる小気味良い音が響いていた。キレのある動きの浩平を目で追うのは楽しく、気づけば部活が終わる時間までギャラリーで過ごしてしまった。帰ろうとすると浩平が朔也の姿に気づき、大きく手を振って朔也!と声を掛けられた。やや気まずかったものの、朔也も手を振り返した。教室で待ってて!と言われたので、頷いて体育館を後にし浩平を待った。 「遅くなってごめん!ずっとあそこにいたの?」  着替えを終えた浩平が戻ってきてそう訊かれた。 「うん。バスケ部ってどんなかなって、見学したくなって」 「興味あるなら朔也もバスケ部、入ればいいのに」  浩平が無邪気にそう言った。 「うん……俺、あんまり丈夫じゃないでしょ?」  朔也はしょっちゅう欠席する自分が丈夫ではないとクラスで噂されているのをわかっていたので、そういうことにしておいた。 「それにウチ、かなーりビンボーだから」  努めて明るい口調で朔也は言った。 「だから道具にお金がかかる部活には入れなくて」 「そうだったの。なんかごめん」  浩平が申し訳なさそうな顔をして詫びてきたので、ううん気にしないでと朔也は慌てた。 「ホントは運動系の部活、入りたいけど。家に……真っ直ぐ帰りたくなくてさ。運動部なら練習で帰り遅くなれるし」  浩平はさっき早く大人になりたいと言った朔也の思い詰めた表情を思い出した。家に帰りたくない事情と何か関係があるんだなと思ったが、訊いてはいけない気がして敢えて触れなかった。 「だったらさ」  浩平は名案を思いつき、朔也にこう提案した。 「バスケ部のマネージャーやらない?それならバッシュもバッソクも要らないし、身体弱くても大丈夫だし、帰りが遅くなっても不自然じゃないし」 「マネージャー?そういうのアリなの?」 「アリだよ!去年までマネージャーいたらしいし。顧問の先生に訊いてみようよ!」  浩平が顧問に上手く交渉してくれて、晴れて朔也はバスケ部のマネージャーになった。スコアのつけ方なども浩平が教えてくれてすぐに覚えた。普段よりも遅くに帰宅することができたし、浩平と過ごす時間も増えた。二人の仲はますます深まり、いつしか互いを親友と呼べる間柄になっていた。相変わらず朔也は友達が少なかったが、浩平といられればそれで満足だった。浩平から見て朔也は家庭のことを語りたがらず、何かと謎の多い存在だった。少し影のある朔也を浩平は大切な友人として扱い密に接した。  朔也が家で男と二人きりになる時間は減った。酷い目に遭わされることも滅多になくなり、欠席することもほとんどなくなった。何もかもがいい方向に向かっていると朔也は思ったし、この平穏な時間が永遠に続いてほしいと願った。
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