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 約束した日の朝は、いい天気だった。空には雲ひとつなく、風は穏やかで朝から気温が高くて少し歩いただけでも汗が出るほど暑い。真夏日だ。  バスから降りると道路の向かいに一成が立っていた。白いTシャツにハーフパンツを履き、キャップの帽子を被っている。マリーナの前にいる一成はパーティの中にいた時よりもさわやかで、朝の海によく似合っていた。  彼に案内され、マリーナの入り口を通って、すぐ隣の建物キャプテンハウスに入った。建物の一階は広々としていて、カフェのようにテーブルと椅子がいくつか置かれ、セーリングを楽しみにきた人達が缶ビールを片手に談笑していた。  そのテーブルの一つに一成の叔父がいた。年齢は四十代くらいで、少し太り気味で、白髪が混じった髪は短くいかにも人が良さそうな雰囲気の人。私が自己紹介をすると叔父さんは「いらっしゃい。今日はよろしくね」と愛想よく言った。そしてもう一人、隣りにいた女の子を紹介された。 「この子は姪の千夏」  女の子が「よろしくね」とにこりと笑う。吸い込まれそうなほど魅力的な笑顔だった。彫りの深い顔立ちで、笑うと大きな目の目じりが下がり、艶やかな唇が綺麗に弧を描いた。肌は健康的に焼けていて、髪は長く、肢体は引き締まり、座っていてもスタイルのよさが分かる。 「この子は小さい頃からヨットに乗せていて慣れてるから……」と叔父さんが私たちが仲良くなれるよう色々と説明してくれたけど、私はこの子とは友達にはなれないだろう、と直感していた。気が合わなくてケンカしそうとか、意見や好みが合わなそう、とかではない。千夏は私にまるで関心がなかった。社交辞令の笑顔以外、私に心を開く気がないのが伝わってきたからだ。  着替えているうちに準備をしてくれていたようで、ディンギーは港にあった。帆が風を受けて船がゆらゆら揺れている。四人でディンギーに乗り込む。エンジンのない船に乗るのは初めてだった。  波がざわめいている。  濃紺にわずかに緑がかったところがあり、海面の色がわずかに違う。港を出ると船は風を受けて爽快に走り始めた。 「あれが風だ。あと五秒後に風くるよ。気をつけて」  一成の言ったとおり、五秒後に白い帆はいっぱいに風を受け、船が傾く。照りつける太陽が暑い。 「叔父さん、灯台の後ろを抜けて」  船先に座る千夏が船尾で舵を操る叔父に言う。髪を結い、サングラスをかけた千夏は波にゆられて船が大きく傾いても悠々としている。時折、ジブセールのロープを引いたり、前方から別の船が来るなど、叔父に指示していた。 「お尻を船の外に落して、太ももの裏で座ってこういう風にもっと上半身を倒してごらん」  私と同じ側のサイドボード、私の前に座っている一成がそう言って見本を見せてくれた。私はメインセールから伸びるロープを握り、船底のロープにつま先を引っ掛けた。私も一成の真似をして体を海の方へ倒した。    船が海を滑るように走る。背中のすぐ下は海で、広大な海の表面をすれすれに飛んでいるような感覚。不思議と怖くはなかった。  見渡す限りの海は太陽の下は特にキラキラと輝いていて眩しかった。鳥が飛んでいるのが見える。彼方に二等辺三角形の白い帆が見える。漁船が見える。陸が見える。小さな建物が見える。その背には山々の稜線が見える。視線を上に転じる。見上げた帆の先の風見(かざみ)が風を切って風上を指している。  昼近くまでセーリングを楽しんで、海から上がった。シャワーを浴びてキャプテンズハウスの外のテラステーブルにいると、真昼の太陽がジリジリと肌を焼いた。叔父さんと一成も缶ジュースを持って戻って来た。 「腹が減っただろ。向こうの海岸で仲間がバーベキューをしているから食べに行こう」  叔父さんが言った。 「でもまだ千夏ちゃんが」  船を片付けた後、千夏の姿を見ていない。シャワー室にも姿がなかった。 「千夏なら家でシャワーを浴びるって言って先帰ったよ。ここのシャワールームのシャンプーは髪に合わないとかいっていつも使わないんだ。お嬢様だからね」  一成が私に缶ジュースを差し出しながら笑う。 「お嬢様?」 「千夏は姉夫婦の一人娘なんだけど、姉は海外を中心に和食レストランチェーン店を経営しててね。父親は京都の名家の三男で婿養子だ」  叔父さんは缶ビールのプルタブを開け一気にビールを流し込んだ。  どうりで、と千夏の態度に納得がいった。 最初、千夏と会った瞬間、笑顔の奥で値踏みをされたような感覚を覚えたのは間違いじゃなかった。商売で地位を得た人は、人を自分にとって価値があるかないか瞬時に判断する。千夏は私を自分の友達になるレベルには見合わないと判断したんだろう。たぶんここに来たのが私じゃなくユイだったら、もっと別の態度をとっていたかもしれない。
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