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その日、おれは人の流れと反対に向かって歩いていた。耳にぶちこんだワイヤレスイヤホンからは『本日の被害者数』なんていうしょうもない情報が一方的に垂れ流されている。こんな天気のいい日に政府主導の無料ニュースなんて聞くもんじゃない。こんなものを聞いていたらあいつらみたいなバカになる。おれは、ポケットのなかからスマートフォンを引っ張り出し、動画サイトのタブを閉じた。
「アヤちゃん、急いで! 今ならまだまにあうみたいよ」
ぎゃいのぎゃいの騒ぎながら若い母親ふうの女が、おれとすれ違った。この女も多くの一般市民と同じように、白のぶ厚い防護服を着こんでいる。このくそ暑い日本の夏にそぐわない格好。まったく、どいつもこいつも。そう思った瞬間、おれのすねになにかがぶつかった。
「痛てっ」
したを向くと、4歳くらいの女の子がおれの脚に激突していた。
「ふええ……」
青天の霹靂。こいつはまずい。おれは、その場にしゃがみこんだ。
「ごめんな。痛かったよな。ちゃんと見てなかったおれも悪いよな。ほら、お詫びにこれやるよ」
そう言って、先ほどパチンコ玉の端数で交換したロリポップを少女のまえに突き出した。白地にピンクのぐるぐる模様。おれにとっては歯が溶けそうなビジュアルの砂糖菓子も、少女にとってはキラキラ光る宝石のように映るらしい。
「わあ、ありがとう……」
曇り空が急激に晴れる。頭上の空と同じ色。よかった。そう思った刹那。
「ちょっと! あなた、なんてことするの!」
うしろから先ほどの若い母親の声。
「うちのアヤがゾンビにでもなったらどうするっていうのよ」
おいおい、勘弁してくれよ。
「今からゾンビウイルスを予防するためのワクチンを打ちにいかなきゃいけないのに、あんたみたいな防護服も着てない非常識な人間がうちの娘に近づかないでちょうだい」
そう言って、ロリポップに向かって伸ばしたアヤちゃんの手を引っ張り防護服の母親はおれの脇を通りすぎた。
「おい! 急げ、もうあんなに並んでいるぞ!」
さらにそのあとに続くように、人の波がゾロゾロとおれの背中に流れていく。この先には、献血カーを改造したワクチン接種車が停まっているのだ。
そう。今や世界はゾンビウイルスの恐怖が蔓延していた。
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