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ギャーッと叫んでしまったのは、トイレのドアを開けたとたん、足元に、コンニチハッとご挨拶するような馴れ馴れしさで、一匹の蜘蛛が擦り寄って来たから――すぐさまテルオはドアを閉めた。 閉めてから、 「お願いだよ、早く来てよ」と同じ高層住宅の3階上に住む照作に電話を掛けた。「そうなんだ、そんじょそこらの蜘蛛じゃないんだ、手のひらサイズをカンタンに超えてしまってるみたいなつわものッ」 ところが、 「このオレも、今ギャーッと叫んだところだよ」と昭作は言って返す。 「そっちが蜘蛛なら、こっちはミミズだ」 あ、ミミズかい。 昭作はこの頃ベランダのプランターで小松菜やシソの葉といった野菜類の栽培を始めている。栄養たっぷりだぜ、高かったけどねとホームセンター買いの沃土を盛ったそのプランタは、昭作の自慢だ。それだけ栄養たっぷりというところ。養分を欲しがるミミズが何匹か棲みついていたって、仕方ない。いや、手作り野菜の実りを期待するには歓迎すべきことではないのか。 「お互い、災難だな」とどこか余裕さえ感じられる声で、昭作はテルオを救う。 災難なのはお互いさまでも、オレの方がいちおう年上だから、そっちに行ってやろう、待ってな、と頼もしい。 持つべきものは親友だ、いや親友を超えた恋人だとテルオは有り難がって、昭作の到来を待つのだが、気が気でない。 かなり前から、トイレのドアは開閉の調子が良くない。下の床との接点が、隙間を超えて浮き上がっている。 ス、スキマ、かんべんしてよ。あ、ほら、もう、蜘蛛さんの長い足の先っちょなんて、見えてきたりしない? とテルオは体にブルブルと震えが来そうだ。 そんなものなんて、そのうちなおしてやるよ、オレって、DIY得意だから、と昭作は胸を叩いて請け合ってくれたものだが、忘れてしまったのか。それでなくても、昭作はまずまず売れっ子の照明デザイナーで、業界内の賞なども貰っている。 一方テルオは、同じデザイン事務所でマネージメント業に携わっている。 昭作の忙しさがわかるだけに、こっちのトイレのドアのスキマのことなんて忘れちゃうのも無理はないのかも、とナットクしなくてはならないと思うが、 でも、自分は恋人なんだからな、と悔しくもなる。 いや今の自分は悔しがっているどころではない。 ほらほら、もう見えてきたりしない?  抜き足差し足を超えたでっかい蜘蛛の手の先足の先というものが・・・ パニック~!      ☆ ギャーッと叫ばれてしまって、蜘蛛のクミちゃんは、自分の体が一瞬縮んだと恐れた。 長い何本かの足も一瞬短くなって、自分が蜘蛛でない何かの生き物にさせられてしまったような……いえいえ、怯んでばかりもいられない。 わたしはれっきとした蜘蛛さんなの、しかも、蜘蛛ワールドでは、ちょっとは名の知れたそんざい。この間も不定期開催の美人コンテストで準ミスなんてものになってしまったくらい。 そんなわけで、日夜の求婚者だって、片手で足りず、と華やかな日々を送っている――そんなわたしが、どうして、ギャーッなんて、叫ばれなくっちゃならないわけ。 ザケんじゃないわよッ、と切りたくもない啖呵など切ってしまう自分が悔しくてたまらないが、そもそも、この自分が、どうして全く、こんな狭いトイレの中になどいるのか、と振り返ってみる余裕はまだ、ある。 美人コンテスト準ミスのプライドが、そうさせる。 そんじょそこらの蜘蛛ちゃんとは自分は違うのよ、とそんな感じ。 クミちゃんはついさっきまで、求婚者のひとりである蜘蛛のモーくんと仲良くお散歩をしていた。 どうってことない住宅地のいつものコース。 いいお天気で、おひさまの光もサンサンのキモ良さ。ランランランと歌でも歌いたくなく気分のまま、歩いて行けば、〝メゾン高村〟なる高層住宅の敷地内に入って行くことにもなった。 そしたら、「ちょっと疲れたね」とモーくんがあくびをした。 そうねとクミちゃんもあくびをすると、モーくんが嬉しそうに笑ったので、クミちゃんもお付き合いみたいに笑う。 ホントいいお天気だね、気分も快調だね、とモーくんは言って、目の前にある白壁を目で指した。それは、《メゾン高村》の1階の部屋へとたどり着けようかという壁。 ここ、登ってみようよ、とモーくんは誘った。 「いいけど、どうして?」 「どうしてって。今思い付いたんだけど・・・タマにはこういうのもいいかなって」 あ、そうと頷きそうなクミちゃんを見て、モーくんは冗談半分みたいな口調で、 「ここ、登ってさ、うん、どっちが早く登れるかって競争してさ、ボクが勝ったら、そうだよ、ボクと結婚してッ」と言った。 さっきあくびをした時、思い付いたことだとモーくんは言い訳するが、ほんとは今日のお散歩に誘う前から考えていたことなのではないかとクミちゃんは思った。 それにしても、何だか冗談半分の物の言い方というのが、今一つ気に入らない。 「そんな言い方ってあるかしら。あくびをした時に、ケッコンについてどうこうって」 「ごめんよ。言いなおすよ。結婚してください、このボクが勝ったら」 クミちゃんは返事はしなかったが、じゃあと足の1本2本を白壁へと掛けた。 モーくんも掛ける。どちらも達者な足の運び、スルスルと壁を登って行く。 ベランダへの到着は、勝負無しだった。 あーあとモーくんは溜息を付いた。 「同点かぁ、オマケしてくんない? 勝負無しのドローだったら、 ケッコンOKってね」 なに、言ってンのよと受け流すクミちゃんは、次なる野心に駆られていた。 ふと見上げれば、小窓がある。 窓の向こうは何だろう。 クミちゃんは、モーくんのことなど忘れたみたいに、登って行った。 すぐにも着いた。 窓は開いていて、小さな網戸が誂えられている。 だが、その隅っこの網が破れていた。 いたずら心を起こしたでもないが、そっと、足先を、くぐらせてみた。1本2本。その時、急の突風が吹いた。 あっけなくクミちゃんは、網の破れを通過して、内へと真っ逆さま。キャーッ! 気絶はしなかったが、しばらく頭がフラフラした。 ココはどこ。真っ白い便座の上に、自分はいる。 もう一度、キャッと今度は短く声を発す。 モーくんはどうしているのかしら。 ようやく上を見上げると、呆然と見下ろしているばかりの求婚者の姿があった。声も出せない有様と見える。 助けに来てくれないのかしら、だったら、ケッコンなんてもってのほかね。 クミちゃんは、まだフラフラの余韻を抱えながらも、強気を取り戻した。      ☆ 「シンパイすんなよ」 程なく3階の部屋からやって来てくれた昭作は頼もしい 「オレってさ、ハ虫類って得意だから」 「え、蜘蛛って、ハ爬虫類って言う?」 「言わないか」 「言わないっしょ」 ちょっと笑わせてやろうと思っただけだよ、と昭作はテルオの頬に軽いキスをして、シンパイすんなよ、ともう一度言った。たかが虫のジャンルじゃん。 このトイレのドアをバタンと開けて、ささっと中を見渡して、ああ、蜘蛛ちゃんいるねってわかったら、スリッパでバシッ。それでジ・エンド。 昭作は履いている革の黒スリッパを脱いで掴み上げるような仕種を、もう、している。 テルオは、しかし、咎めた。 「バシッってのは、まずいんじゃないの。ほら、言うでしょ。蜘蛛は家の守り神とか、なんとか」 「そんなの、こだわる?」 「うちのおばあちゃんが、昔から言ってたし」 「ああ、あのオン年100歳越えの……」 「そうそう」 「でも、そんな風なら、そもそもきみが、トイレの中の蜘蛛殿を怖がるってのもおかしなことじゃないかい」 言われてみれば、もっともな気もするが、怖いものは怖い。どうにかしておくれよ、と縋るまなざしをテルオは強くした。 「まあ、穏便にさ」 「オンビン?」 まあ、アイするきみの言うことなら、と昭作は納得したように今一度、テルオの頬にキスをして、解決策はここだな、と開閉の調子が良くないドアの下を見る。 「床との接点、この隙間を超えたスキマを活かすんだな――そうさ。何でもいいから餌とかさ、結わえさせた棒っきれとか差し込んで、おいでおいでってね。誘導して、こっちへと出してやったのを、さっさっさーってね、ベランダに箒で掃き出してやったらいい。はい、メデタシ、メデタシ」 名案かも、とテルオも、隙間を超えたスキマを改めて見詰めた。 手のひらサイズのでっかい蜘蛛でも、導き出せる余裕が確かにある。 昭作お得意のDIYがおあずけになっていてよかった、とテルオはスキマに縋る。      ☆ ――その手には、乗ってやんないンだよ。 蜘蛛のクミちゃんは、ドアの内で、啖呵でも切りたくなる気分だった。 何だか仲良しこよしの男性二人のようだが、勝手にいちゃいちゃしてるだけのことにしておきなよ。 餌だって? 棒っきれだって?  そんなもので、蜘蛛ワールド準ミスのこのクミちゃんを釣ろうっていうの? ベランダに、さっさっさーて箒で掃き出す?  いいかげんにしなさいッ。 クミちゃんの怒りはとどまるところを知らない。このままだと怒りが沸点に達して、自分の体そのものが爆発してしまうかもしれない。いや、そんなのはほんとイヤだよ。 どうしてくれましょうと頭キリキリのクミちゃんであったが、その時、乗ってやってもいいかもよ、とささやく声が間近から聞こえた。あら、モーくん? 「あ、あなたったら、いつの間に」 「ご挨拶だね。見くびってもらっては悲しい。あいするきみの一大事、このボクが放っておくわけがないってものさ」 「あ、あなたも、突然の風に吹かれて落っことされたってわけ?」 「そうでもないさ。きみがこっちに吹き飛ばされたあと、またすぐに風が吹いてきたけど、それはそよ風だった。ふんわりとボクはその風に乗った。揺り籠にでも揺られているみたいに、けっこうイイ気持で、ここへと舞い降りた。そんな感じ」 「そ、それはけっこうなこと」 「いや、それにしても、だいじょうぶだったのかい。ケガとかなかった?」 「あなたこそ、見くびらないでよ。美人コンテストで、審査員さんから、特技は?と訊かれて、ためらわず柔道ですとこたえたわたしなのよ。とりわけ得意なのは受け身、だから、真っ逆さまの衝撃だって、ひょいと躱せたってわけ。そんなこと、あなた、とっくにご承知でしょ」 わたしを愛しているならば、と言い足し掛けて、クミちゃんはハッとする。 見くびらないでよ――口調はやわらかでもないが、わたしったら、そう言いながら、このモーくんをを何だかホットなまなざしで見ている。 ほら、胸だって、ちょっと熱い、のかな?  あら、もしかしたら……好き、になってる??? クミちゃんのココロに気付いているのかどうか、モーくんは、さあとやる気満々で促した。 「スキマが、うん、隙間を超えたスキマなるものが、ウンメイの扉を開くよ。見ていよう、待っていよう。おいしい餌とやらが、突っ込まれてくるその瞬間を――」      ☆ 棒っ切れに結わえさせる餌というのは、やっぱり、蜘蛛の好むハエみたいな小虫とかがいいのだろうと見当は付いた。 だが、1匹2匹のハエなんて、そうそううまい具合、部屋の中に飛び込んで来てくれるものでもないのだよ、と知らされるばかりの昭作は、開けるよと断って開ける冷蔵庫から、あ、こいつがいいなと豚のベーコンの塊を出して来て、キッチンでちいさな角切りにしたものを、自分の部屋から持って来ていた十文字ドライバーの先っちょで、ブツリッと刺してやった。 さあ準備万端、隙間を超えたスキマへと差し入れる。入れながら、おまじないのように、いや、おまじないを唱える声そのもので言った。 「好きだ、好きだ、テルオくんが、オレは24時間全部好きだ」 今、そんなこと言わなくっても、とテルオは照れるが、気が付けば、 「ボクも好きだ、好きだ、ショーちゃんが24時間ぜーんぶ好きだ」とやっぱりおまじないの声で唱えていた。 二人揃っての声が功を奏したのか、棒っ切れの先のベーコンは落っこちたりもせず、悠然と隙間を超えたスキマの向こうに消えて行く。 「好きだ、好きだ」 二つの声は、もう合唱のようにも輪唱のようにもなって響いている。      ☆ ……好きだ、好きだ、24時間全部好きだ、ぜーんぶ好きだ…… スキマの向こうから聞こえてくる声、もう合唱にも輪唱にもなっている二つの声を、クミちゃんもモーくんも聞き耳を立てて聴いていた。 「何だか、イイ感じの人たちみたいだね」 モーくんが言えば、クミちゃんも頷く。 「イイ感じの人たちみたいだから、ボクたちも、イイ感じの蜘蛛ちゃんになってあげたくなるね」 「そうかもね。うん、24時間全部、ぜーんぶね」 言葉を交わしているあいだにも、棒っ切れの先のベーコンが、ゆっくりゆっくりとスキマを超えたスキマから差し込まれてくる。 クミちゃんとモーくんの間近に迫る。 「あ、ベーコンかよ。ボク、好きだよ」 「わたしだってよ」 すると、じわりじわりとベーコンは僅かに後退するけはいを窺わせる。隙間を超えたスキマへと戻って行く。こうして、おびき寄せようとしている。 クミちゃんとモーくんも、そろりそろりと隙間を超えたスキマに向かう。 長い足が、交互に縺れあうぐあいになりそうなのも、わるくない。 好きだ、好きだよ、と足が触れるたび、モーくんがささやく。 わたしもよ、とクミちゃんはまだ応えてあげないが、触れてくる足から、今まで感じたことのないようなあったかさをもらえるみたいな気になる。 1歩2歩、ゆっくりゆっくり、熱っぽさを味わうようにスキマに近づく。十文字ドライバーの先っちょが、隙間を超えたスキマをくぐる。と、その瞬間、些かの欲を出したモーくんは、ベーコンの塊を、パクリとやってしまった。 「ッたく、食いしん坊なんだからー」 呆れるクミちゃんに、ごめんよ、ツイツイね、とモーくんは謝るのだが、 「あ、もう足の先が出かかってるよ。隙間を超えたスキマの向こうにね」 とヒヤヒヤ声を洩らしもする……。      ☆ もうちょいだ、もう少しだ。 テルオと昭作は、二人してのおまじないのような声も止ませて、十文字ドライバーの先っちょからの反応を感得しようと、固唾をのんで見守っていたが、 昭作の握る手は、急にも、あっと軽くなった。 「あれッ、ベーコン、取られちゃったみたい」 「再チャレンジ?」 「するしかないね」 今度は自分が、ドライバーの先に、ベーコンを刺してやろうかと意気込むテルオを、シーッと昭作が口に指先を当てて、制した――「静かに、お静かに」。 見遣れば、蜘蛛の足。隙間を超えたスキマから、1本2本、そろりとゾロリと覗かれる。 釣りのベーコンは、もう要らないのかもしれなかった。 また1本2本、そろりゾロリと長い足が伸びてくる。 今かな、と昭作は、そのそろりゾロリに合わせるように、ゆっくりドアノブに手を掛けた。 だいじょうぶかい。見守るテルオは、それでもやっぱり怖くて、片目を瞑る。 オープンッ。傍らの恋人を励ますようにも、昭作はノブを回す。回して、引く。 ようこそー。テルオの声も恐々ながら、やさしく洩れた。      ☆ 風が吹く。 見上げるでもない小窓から、吹き降ろされてくる。 怖くもないやさしく、あったかい風だ。 蜘蛛のクミちゃんも、モーくんも、その風にふわりと乗ることが出来た。 開けられたドアから、蜘蛛さんのカップルは、風に揺られるまま、ヒトっ飛び、ベランダに降りる。 さあ、還ろうよ、と足と足を重ならせて、お互いの顔を見る。 「結婚してくれるよね」 「まーね」 足の先どうしを触れ合わせながら、約束した。 それから、 「24時間全部、ぜーんぶ好きだ」と再びの言葉を交わし合い、トイレのドア前に立ったまま、抱擁している2人のにんげんを、彼らは健やかに眺めた。
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