6人が本棚に入れています
本棚に追加
鏑木 詩音、25歳。
――私は、明日、たぶん会社をクビになる。
会社でミスをしたからだ。
上司は「なぜミスをしたんだ」と繰り返し問い詰めた。
ミスなんて、わざとする人はいない。理由なんて「うっかり」とか、そんなことしか言えない。
でも、上司はしつこかった。
「ミスをしない人間もいる。しかしお前はミスをする。その違いは何だと思う?」と理由を求めた。
だから、私は「ミスをしない人間よりも私の能力が劣っているのだと思います。ミスをしない人間よりも判断力や集中力がないのだと思います」と言った。
すると、上司は「会社としてはそんな人間に業務は任せられない。人事に相談する」と言った。その結論に話を持っていくために誘導されていたのかもしれない。
「はぁ……」
会社から帰れるのは嬉しいけど、帰った後は寝て、明日になったらまた会社なのだ。
そして、明日は盛大に落ち込むイベントがきっとある。そう思うと、憂うつだ。
ちょうど一昨日、田舎の母から「入院する」という報せを受けたところでもあった。
「学校を卒業して、会社に勤めて、結婚して子供を産んで。そんな平凡な人生が模範的なのよ」と母はいつも言っていて、私が会社員として働いていることを喜んでくれていた。
私は母を支える側で、母に心配をかけてはいけないのに。
明日から逃げるように足を止めたのは、駅ビルの西口広場だ。
名前も知らないたくさんの人が、忙しなく行き交う場所。
見知らぬ誰かがスマホに向かって「今から帰る」とか「今着いた」とか話している空間。
大勢の中に埋没してひっそり息をする私は、そんな騒がしさの中で、ピアノの音に惹き付けられた。
赤いラグの上に置かれた駅ピアノを奏でているのは見知らぬ誰かだ。
不協和音を発しても気にすることなく、楽しそうに笑っている。
ふと、懐かしい気分になった。
私も中学を卒業するまでは、ピアノを頑張っていたからだ。
コンクールで優勝したこともある。
あの白い鍵盤に指を置いたら、時間が巻き戻る気がした。
弾いてみようか?
そう思って、スマホを手に順番待ちの椅子に座った。
最初のコメントを投稿しよう!