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「記憶を消せるだと!?」
「ああ」
暗い朝方の部屋で大声を上げる青年がひとり。彼が前のめりで覗き込んでいるのは、小さな水槽だった。
「お前……それは、絶対だな?」
「ああそうだよ。さっき説明しただろう」
口からぷくぷくとあぶくを漏らしながら金魚が喋っている。先日まで自慢の尾びれを揺らしていた金魚も今は大人しく水底に沈み、艶やかな紅だったはずの身体は真っ黒に染まっている。
「見ての通り俺はもう長くない。だがこの色、どうやら俺は選ばれてしまったようだからな。今まで世話になった礼だ」
「た、頼む、もう一度よく聞かせてくれ」
「まったく、お前はいくつになっても物覚えが悪いな」
金魚は呆れたように口をすぼませた。そして瞳をぎょろりと青年に向けると、「いいか?」と始める。
「俺を水槽から引き上げ、よく洗って食うんだ。調理とか魚の俺は知らないがまあお前の好きにすればいい。必ずよく願いながら噛みしめるんだぞ。お前の忘れたいこと、二度と思い出したくない出来事を消せるよう一心に願いながら俺の身を食うことで」
「記憶を綺麗さっぱり消すことができる……」
「そうだ」
満足げにうなずく金魚はしゃがれた声で続けた。
「お前はどうしようもない人間だが生き物を大切に育てる心がある。俺はこの水槽でも納得いく一生を送れた。でも、お前はそうはいかないだろう?」
「……ああ…………」
「嫌なことは俺が真っ黒に塗りつぶして見えなくしてやるから。お前はこの狭い水槽から、出て、広い世界を……」
「…………っ」
消したい思い出なんて山ほどある。寝る前に身悶えさせて明日を生きる気力を削ぐことがたくさん。
忘れたいことを願いながら食わなければいけないのか。しかし、今思い出せないのに後でひょっこりやってきて口に苦い味をもたらす記憶がきっとたくさん眠っている。それもすべて消すには、そうするには……。
――そうだ、黒歴史を丸ごと願えば!
息絶えた金魚を前に青年は覚悟を決める。
「ああ、わかったよ。俺は前に進む」
「俺を閉じ込める黒歴史を全部全部全部消し去って、広い世界を見てやるよ!」
「……で? これ、あの患者さん用なんですね?」
「そうだ。運んでこい」
「こんなにたくさんの黒いクレヨン、一体何に使うんです?」
白衣を着た年かさの男と若い女が話していた。
「塗りつぶすのが好きなんだろうな。まあ、何にも覚えちゃいないんだがな」
「記憶喪失っすか?」
「そんな感じだ」
男がそばの書類を手にとって渡すと、受け取った女は不可解そうに目を細めて読み上げる。
「『黒歴史をすべて消し去り生まれ変わってきます』……?」
「患者の部屋に残されていたメモのコピーだ」
「つまり、どういうことなんすか?」
「俺が知るか。本当に、身体に傷も薬もないせいで何もわからないんだ。ただひとつ面倒なのは……」
「……面倒なのは?」
男は、はあ、とため息をつくと、重々しく呟く。
「その人ね、何回何回教えても『自分は記憶を失った』ってことを忘れるんだ。ここまでしつこい例は今までになかったよ」
「……はは。それならこの患者さん、本当に黒歴史消したのかもしれませんね」
「どうしてだい?」
「だって……」
クレヨンの詰まった箱を抱え、女はどこか嘲るように言った。
「『黒歴史を消す』なんて厨二病くさいこと、もうそれ自体が黒歴史じゃないっすか」
END
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