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『失礼いたします。○○市役所に務めています、保健課の者ですが』
「あ」
約一年ぶりに聞いた人の声だった。
僕はスマートフォンを耳にあてた姿勢のまま、体を硬直させて縋るように視線を彷徨わせるが、いつも助けてくれた母はもういない。
「……はい」
辛うじて喉から絞り出した声は掠れていて、二言なのに舌がもつれるのを感じた。考えてみれば、母以外の人間とまともに言葉を交わしたのは、五年ぶりかもしれない。もしかしたらもっと……と、思考が横にそれていると『では、午後●●時に、お宅へ保護に伺います』という言葉に、一瞬、脳内がパニックになる。
――助けがきた。
そう思うよりも、今の自分を他人に見られる屈辱と惨めさに身が震えた。
四十手前のたるんだ体。汗のにおいが染み込んだ手玉だらけの青ジャージ。黒い画面に戻ったスマートフォンの液晶画面には、ぼさぼさの髪に無精ひげを生やしたオッサンが、死んだ魚の目で自分自身を見つめ返している。
助かった? 本当に僕は助かった?
混乱の潮が頭の中で渦巻いて、その場で悲鳴を上げそうになるのをなんとかこらえた。こんな時に母がいてくれたら、安心してスマートフォンを、今、自分が座っているトイレの床にたたきつけて、赤ん坊のように喚き散らすことができたのに、それが出来なくて歯がゆくて、胃のあたりが久しぶりにぎゅっとなる。
落ち着けと、僕は自分に言いきかせた。
いつもの日課でトイレに籠り、スマフォで情報収集を試みたからこそ、外部との連絡が取れたのだ。それは幸運なことであり、このまま家に籠城しても、事態が好転する兆しは見えない。
目が覚めて、次の日にはいつもの日常に戻っている……そんな、段階はすでに通り過ぎていて、いつ電気・ガス・水道が完全に止まるか分からない状況下、今年の夏を乗り切るのは不可能だ。備蓄していた食料も底をつき、情報収集とカッコをつけていても、結局はアニメを見て時間を無駄に浪費しているに過ぎない。
つまり、状況は詰んでいる。
去年。母の脇腹に【アプシンシオン】の症状が出てから。
いや、正確には、僕がブラック企業に心を壊されて、部屋に引き籠るようになってから。
死んだ父が遺してくれた家に住み、体の弱い母とともに、父の遺産をゆっくり食いつぶすような生活を始めてから――。
とりあえず、出迎えの準備をしないと。
「…………」
そう思い直してトイレから出ると、ごみが散乱してハエが飛び交うフローリングが目に入り、一気に出迎えの準備をする気分じゃなくなった。
水は貴重品だから仕方がないと、心の中で何度も唱えてよろよろとリビングに向かうと、体中の毛穴からイヤな汗がだらだらと流れて背中を濡らしていく。
これから職員とどんなことを話すのか、助かった後のこととか、そんなことよりもなによりも、なにも知らない他人が自分の人生に介入すること自体が苦痛であり、助けを必要としている自分の立場を再認識して、頭を掻きむしりながら叫びたくなった。
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