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去年の春。
肌の一部が緑に変色する奇病が、日本に流行り始めた。
【アプシンシオン】と名付けられた、その奇病の症状は五段階のレベルに分類されており。
レベル1――母の脇腹の皮膚が緑に変色し。
レベル2――母の全身が緑色に変色し。
レベル3――母の筋肉が衰え、全身の毛が抜け落ちて。
レベル4――母の毛穴から苔のような、ふわふわな緑の毛が生い茂り。
レベル5――母はうずくまったまま動かなくなり、最終的にはマリモのような球体となった。通称【アプション化】だった。
母がアプション化して以降、久々に入ったリビングは空気が生温かく淀み、食器棚やテーブルにほこりが降り積もっていて、その中に黄色い粉も混ざっていることに気づいて、僕の気分がさらに落ち込んでいく。
僕の住んでいる地域は、梅雨前になると寒冷前線の影響で大陸から黄砂が飛んできて、咳や喘息といった体調不良を引き起こす。
『梅雨の始まり』と言えば風流かもしれないが、住民からしたらたまったものではない。去年、窓から外を眺めていた時、お隣さんの車がまるで黄粉をまぶした状態になったのにはさすがにびっくりした。
そのことを母に伝えると、レベル1の状態であっても母はのほほんと笑い「温暖化だからしょうがない」と言って、毎年やるように空気清浄機をフル稼働にして、念入りに掃除機をかけて洗濯物は部屋に干し、時折、思い出したように苦し気に咳き込んだ。そのたびに「僕を責めているみたいだからやめてくれ」と頼んで「ごめんね、ごめんね」と母が笑って流すいつものやりとり。
罪悪感で左胸がざわつくも、無力な僕はソファーに座って職員を待つことしかできない。
これから母親以外の人間に会う。
そんなのイヤだ。どうせなら、僕もマリモになりたい。なにもしたくない。
どうしていつも、僕だけがこんな目に遭うんだ。
この世界はあまりにも不親切で、僕にばかり厳しい。
ソファーのすぐ横。開きっぱなしのカーテンと、庭に出る窓越しに見える緑色の大きな塊。バランスボールほどの大きさの母だったモノは正午の陽光を浴びて、ふわふわの緑の毛を風に揺らしている。
日向ぼっこ、気持ちよさそうだな。羨ましいな。
と、去年までの僕は無責任に、アプション化した親に対して、微笑ましい気持ちになれたのに、今は変わり果てた母の姿を直視することが出来ない。
なぜなら【アプシンシオン】の発症者は、慢性的な寝不足に加えて、様々な要因で強いストレスを抱えていたことが判明したからだ。
つまり母が発症したのは、精神科に通うほど一人息子の将来を案じ続けた結果であり、息子と一緒に人の形を捨てたことで母は救われたのだ。
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