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「分かりますか? 私たちは日常的になにを食べているのか、じつは全然、意識なんてしていないのです」
「はぁ」
訪れた職員は二人の男性だった。
スーツを着た、いかにも模範的な公務員の出で立ちで、にこやかな表情を作りながら、当たり前のようにリビングのソファーに座る二人に、僕はぺこぺこと委縮しながら、いつでも逃げられるように窓に近い席に座る。
「腸活がすべての始まりだったのです。乳酸菌っといってもいろいろあるでしょう? ブルガリアとかビフィズス菌とか、どんな作用でどんな風に体にいいのか、正確に理解している人間っていませんよね」
「……はい」
そういえば母が一時期、腸活にハマって様々なヨーグルトを買ってきたことがあった。
「腸は第二の脳みそと言われていますが、それは誤解なのです。ただの単細胞生物が進化をするうえで、まず最初に作られたのが栄養を吸収するための腸であり、次に外部から栄養を効率よく摂取するために脳みそが作られました。つまり、本来の肉体の主導権は腸にあったのです。これは大げさな表現ではありません」
二人は演劇をするかのように、交互に語り掛けて僕の反応を見ていた。
その目は全然笑っていなくて、黒い穴に見えたのは気のせいなんかじゃない。緊張しているのを気取られたくなくて腕を組み、精一杯の虚勢を張るも、彼らと対峙するだけでじわじわと神経が削られていく。
「ですが、人類は脳みそに即して進化し、脳みそを中心に生活しています。そのせいで、腸が望む進化を果たすことが出来なくなった。カロリー過多に慢性的なストレス、感情に、記憶、努力、計算、思想、豊かでめまぐるしい物質的文化の毒によって、肉体は呪いの如く日常的に蝕まれることになりました」
「それが、です! 意図しない奇跡が起きました! 免疫力アップとして注目された腸活が、腸そのものをアップデートして、光合成をおこなう葉緑体に近い細胞を手に入れたことで、【アプシンシオン】という新たな進化の形を獲得したのです。動画で広がってしまいましたが、すでに五年前に【アプシンシオン】の特性は世界保健機関によって確認されていました。知っていましたか? 【アプシンシオン】とはギリシャ語でニガヨモギという意味なのです」
「……その話に、なんの意味が?」
僕は話を促した。
後からでも聞けるであろう余計な情報に、腹の奥でイライラが募ってきた。
「この現象は日本から始まったのです。日本は古来から発酵食品に親しんできたからこそ、腸が世界のどこよりも早くアップデートされて、脳みそから肉体を取り戻すことに成功したのでしょう」
「この状況から逃れたいと、願ってしまったのも大きな要因かもしれませんね。助けられるよりも自殺を選ぶ。パニックで無様をさらすよりも静かに狂う。逃げたいけど逃げたくないから、自分自身の手で人間の形を捨てる……そのせいで、我々の予想をはるかに超え【アプシンシオン】は世界へと波及してしました」
「当初は情報を小出しにして、日本国民の行動をコントロールし【アプシンシオン】を収束させるつもりだったのですが、まさか自分たちから感染を拡大させるとはとんだ誤算。これでは文明が崩壊してしまいます。そこで我々は、まだ無事な人間を保護してコミュニティーを作り、この危機を脱したいと考えているのです」
「……それで、そのコミュニティーに、僕を連れて行きたいと?」
僕に向ける彼らの笑顔に嫌な予感を覚えた。
話していて気づいた、彼らの正体は市の職員よりもはるかに得体のしれない存在であり組織。
そして友好的な態度をとっているが、腹の底では僕の意思なんて関係なく、無理やり僕を自分たちの世界へ引きずり込もうとしている。
「はい、そうです。人間の人間たらしめる、文明の担い手が必要なのです」
「アプション化した人間は、もう二度と元に戻りません。お母さまのことは残念ですが、ここにいてもいずれ生活は行き詰まりますよ。我々とくれば、少なくとも生活には困りません」
「あぁ。ですが、タダでとはいきません。我々の指示に従って簡単な労働をしてもらいます。それを差し引いても破格の待遇だと自負していますよ?」
「……一つ、確認してもよろしいですか?」
必死に舌を動かして言語化する僕は、顔をあげて二人を見る。
「僕は過去、母に付き合って腸活をしていました。つまり、環境の変化が引き金となってアプション化するかもしれません。保護と言っても、具体的になにをしてくれるのですか?」
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