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頭の中で、何度も開店準備にかかる時間を逆算シミュレーションをする。けれどこの電車の速度では間に合う気はしなかった。
しかも今日は本部のマネージャーが来ることになっていて、早めに出勤するように言われている。
不安で動悸が早まり、脂汗が額を伝う。空気が薄くなったように息苦しさを感じ、喉元のタイの結び目に指をかけた。その瞬間、鋭い金属音と共に、車内が揺れて、鉄の塊は動かなくなった。
安全確認のため、暫く運転見合わせというアナウンスが流れる。
ここで?
この状態で?
どうしよう。絶対に間に合わない。
頭が真っ白になり、血の気が引き、紙袋を抱きしめるように俯いた。
紙袋に入っている箱の中身は日本酒だ。消えた同僚の謝罪を本部会社にするための贈答品だ。ヒキガエルみたいな本社のエリア部長も開店に合わせて来るはずだ。遅れるわけにいかない。
完全に、パニックだった。
その時、目の端に白いものが掠めた。
虚ろ気に目を凝らす。
沢山の足に混じってそれはあった。
白地に水流のような青い涼し気な文様がちりばめられた、光沢のある布地。
それだけなら、和装の人が乗っているのかと思うだけだ。
だが、その布地から覗くのは明らかに人間の足ではなかった。
人の足の間を縫うように、鱗のびっしりと着いた尾尻のようなものが裾からのぞいていたのだ。
慌てて視線を上に上げる。
けれど上半身のあるはずの位置には、それらしき人物も和装の人すら見当たらない。
もう一度目線を足元に戻せば、やはりそれはあった。
周りの人達も特に不思議に思うことも、気にしている様子もない。女性も男性も、学生も社会人も、ほとんど手元の端末に夢中だった。
ぞくりと悪寒が背を震わせた。
それでも再び目を落とした先の着物の模様から目が離せなかった。
水面を模した刺繍から、さらさらと流れる川音が聞こえるようだった。川沿いの樹々から落ちた色とりどりの葉を浮かべ流れていく小川。林にこだまする鳥の囀り。水面を渡って吹く湿り気を帯びた風に頬を撫でられた気がして、ハッと我に帰る。
いつの間に運転を再開したのか、電車は駅に止まり、扉が開いたところだった。押し出されたたくさんの足に混じって、件の着物も一緒に外に出ていくのが見えた。
気が付けば、慌ててその後を追って電車を下りていた。
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