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改札を抜けて、必死で着物から出ている尻尾を追って走った。
傘はいつの間にかなくしていた。雨がどんどん身体を濡らしていく。
不思議なことに全く不快ではなかった。
むしろ浮きたつような気持だ。濡れれば濡れるほど、何かが満たされた。
この世の煩わしい全てから、解き放たれたような気持だった。
こんな気持になるのは、どれくらいぶりだろう。
そこではたと、我に返った。手に持っていた鞄はどうしただろう。
書類が入っていたはずだ。あれが濡れてしまっては不味い。
立ち止まって、自分の手を見て、今日二度目のパニックに陥った。
手には鞄は無かった。
それどころか、その両手の指の間に水かきがあるのだ。人間の手ではない。まるで、そう河童みたいな。
呆然として、気付けば追いかけていた着物と尾尻を見失っていた。
足元を見ればそこには靴はなく、手と同様に水かきを備えた剥き出しの足があった。
異形の姿になったというのに、何処か落ち着いている自分がいた。
静かだった。降り続く雨の音しか聞こえない。
それにしても一体ここは何処なのか。
ぴしゃぴしゃと、水音を立てながら歩き出す。
「おい、そこの河童」
呼び止める声がして、足を止めた。声は女のものだった。
きょろきょろと辺りを見回してみても、姿は見えない。
「何をしている。こっちじゃ」
再び、呼ばれる。少し焦れたような空気が伝わった。
声の方には大きな立派な朱塗りの鳥居があった。いつの間にか参道に入っていたようだ。
「こっちじゃ。こっち」
声に引き寄せられるように、社の奥へ奥へと進んだ。
参道の両脇は、水彩絵具が滲んで混ざったような美しい濃淡に彩られていた。近づいてみて、それは紫陽花だと知る。
花はしとしとと雨にうたれ、一層鮮やかに咲いている。
たどり着いた本堂の壇上に、女はいた。
黒く艶やかで長い髪の毛は、あぐらをかいた床下でさらにとぐろを巻いていた。
その髪の毛に沿うように丸くなっているのは、件の鱗のついた尾尻だ。
女の着ているものに目を向け、思わず「ああ」と声を上げた。
あの追いかけていた着物の柄そのものだったからだ。
貝殻のような鱗がキラキラと光を反射する。
齢は分からない。若くも老いているようにも見えた。両の瞳は長い前髪で隠されていて、見えない。
唇の赤々しさが何故か際立っていた。気だるげに肘をついていた袖口から覗く腕にも鱗がびっしりとあり、指の爪は恐ろしく長かった。人のものではない。
「何をぼうっと突っ立ておる。早くお前も準備せい。皆もう始めているぞ」
準備? 皆?
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