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 4  こんな田舎でも街灯の明かりはやかましい。おかげで、春一番を告げる星は薄ぼけてしまっていた。  このごろぼくは空ばっかり見上げていた。帰り道、星が出ていなくても、いちおうたしかめるように夜空を仰ぐ。たとえ目が覚めるような美しい星空だったとしても、ぼくはこの季節に光る星の名前をひとつも知らない。でも、いちおう確認してしまう。念のために。  昼だってそうだ。最近はすこし暖かくなったから、昼休憩は会社近くの公園でお弁当を食べるようにしている。そんなときも、たとえ曇り空の日であっても、代わり映えのしない春空だったとしても、ぼうっと空を見上げてしまうのだった。  これまでぼくは、記憶の砂時計からたえずこぼれ落ちていく砂粒ばかりを眺めていた。必死になってかき集めるほど過去の出来事に執着はしていないが、まるで憂鬱を紛らわすためにしきりに車窓を眺めるこどものように、名残惜しげに、あれらの行方を見つめていた。  しかし落ちていく砂粒の代わりに、天上から落ちてくるものの存在に気付いてしまった。ほかでもない、あの狼のような瞳の青年が教えてくれた。  すっかり体になじんでしまった帰り道を歩きながら思う。ぼくはこれからどうすればいいのだろうか。  彼と出会った公園を通り過ぎる。ひっそりと聳え立つ時計を注視すると、すでに十九時を回っていた。いつもよりだいぶ遅くなってしまったのでいないとは思うが、時刻を確認する体を装って、街灯が照らすベンチをちらりと見る。誰かに言い訳するのでもないのだから、正面から堂々と見てしまえばいいのに、最近のぼくときたら、こうやって彼がいるかもしれない場所を人しれず見たり見なかったりしていた。ばからしいと思っていてもやめられない。誰に急かされたのでもないのに、いつもより半歩ぶん早歩きで自宅までの道を辿った。  考えごとをしながら歩いていたから、すぐにマンションに着いた。鍵を探しながら、共用部の廊下をせかせかと歩く。古めかしいゴム張りの床は、学生時代を思い出させる。  そうだ。今日があって、明日があって、明後日がある。そんな当たり前のこと、十代のぼくだって知っていた。でも、ぼくのこれからなんて、そんなもの誰にだってわかるわけないだろう。  予感めいたものがあったわけではないが、玄関前には当然のように彼がいた。彼は洋服が汚れるのも構わずに、ぼくの家の扉にもたれかかって膝を抱えていた。さっきまで彼のことを考えていたから、心臓がどくりと音を立てる。公園のベンチでもなく、チャイムを鳴らすのでもなく、そういう出迎え方ははじめてのことだったので、動揺せずにはいられない。  ぼくの姿を認めると、どこか不貞腐れたような仕草で、どうも、と顔を上げた。  その顔を見たとき、さっきまでの高揚が嘘のように、ぼくの心はすとんと冷えた。  あの夜のように、彼の顔は腫れて、紅が差していた。いや、あの日よりもっとひどい。こめかみや唇の端は遠慮なく切れていて、擦ったような跡が認められる。ジャケットからはみ出るトレーナーの袖に視線をやると、うっすらと赤黒い汚れがついていた。ぼくの視線に気づくと、両袖をそっと内側に折った。  だれかに、いやあの男に殴られたのは明らかだった。  どうしてそんな子どもじみた顔をするの? いったいぜんたいぼくに何を求めているの? そもそもなんであの男とまた会ったの?  いろいろ考えた末、「なんで?」とだけ口にした。 「鍵をなくしたんです」と彼は言った。 「ちがう、その顔のことを言っているんだ」  ふいとわずかに視線をそらした。その態度は「答えたくない」の意思に見えた。やはり幼子のような仕草は、ぼくの心をかんたんに苛立たせる。 「離れなよ。いや、離れられないからそうなっているんだろうな。でもさ、」  ぼくの言葉を無言で聞き流していた彼は、思わずといったふうにわずかに体をかがめ、けんけんと咳き込んだ。いやな咳をするひとだな、とぼくは思う。壊れかけのブリキのおもちゃが鳴らす軋みのように、ひどく耳障りな音だ。できれば聞きたくない。  気の済むまで咳をすると、屈んだままぼくをちらりと見やり、うろうろと視線を泳がせて、また目を逸らした。吸いきれなかった空気を補うように、もう一度、乾いた咳が宙を舞う。彼を責める言葉は、いつの間にか空咳に吸い込まれていった。 「とりあえずうちにおいで。鍵をなくしたって言ってたけど、どうせ行く場所もないんだろう?」  退いて、と言うと、ひどく緩慢な動作でその身を翻した。  相変わらず噛み合わせが悪い鍵にいらつき、乱暴な仕草でドアを開ける。廊下の電気もつけずにそのままリビングまで直行すると、青年はジャケットも脱がずにひたひたとうしろをついてきた。  本やら小物やらの物置と化していたスツールを一瞥し、そこに座って待つように指示する。彼は文句も言わずに自分が座るべき場所に置かれた荷物を退かし、スツールをダイニングテーブルの脇まで移動させ、静かに腰を下ろした。  リビングに置かれっぱなしのダンボールを覗き込むと、救急セットは一番上に放り出されていた。そう、この男がはじめて家に来たときに使ったっきり、絆創膏も消毒液も日の目を見ることはなかった。あの日以来、たしかこのダンボールの中身はそう何度も出し入れしていない。  ダイニングチェアを引っ張り、男の目の前に座る。救急セットを開けると、消毒液のにおいがわずかに目に染みた。煩わしさから逃れるように、適量より多めに消毒液をティッシュに吐き出す。彼はぼくの手元を黙って見ていた。  そのままティッシュを唇に当てると、つうと消毒液が垂れた。思わず、あ、と口にする。彼は静かにその行方を見守った。ひどく優美な線を描いて、彼の手の甲へと落下していく。  ごめん、と言ってティッシュで拭き取ると、彼はひとつまぶたを閉じた。呼吸に合わせて、唇の端に当てたティッシュの繊維が微かに揺れる。耳を澄まさなくても、すうすうと息を吸い込む音が聞こえる。大きく吸った空気を細々と吐き出そうとして、ぼくと視線が合うと、はっとなって息を呑む。それを何度か繰り返して、ようやく呼吸の音が遠のいていく。 「とりあえずぼくができる手当てはしたけど、明日、病院に行きなさい」  ぼくの言葉に応えるように、彼は無言でまぶたを上げた。どうして、と瞳が訴えかける。 「まえ治療したときのとは違って、今回のはたぶん放っておいたら跡になるよ。たとえばこれとか」  絆創膏の上からこめかみの傷口を小突くと、彼は苦しげに顔を歪めた。  たぶんいままで、あの男は手加減していたのだと思う。それも、かなり。前回、何かの手違いか手元が狂ったのか知らないが、歯こそ抜けてしまったけど、顔の怪我といえば一発殴られて唇がちょこっと切れてしまったのと軽いあざ程度で、外側に目立つ傷はあまりなかった。それこそあの大男はまだ成長途中の青年を甘やかに嬲ることで、己の高慢なプライドを満たしたりしていたのだろう。  でも、今回のはちょっと違うように感じた。繊細な飴細工みたいな肌に、無数の擦り傷と出来立てのあざが浮かぶ。はたして彼らにどういう経緯があって、どういう感情でこうなってしまったのかはわからない。だけど、今生の敵でもあるまいし、いったい彼が何をしたというんだ。こんな子どもを、どうしたってこれほどまでに手ひどく痛めつけることができるんだ。  ダイニングテーブルに投げ置いた使用済みのティッシュから、消毒液がじわじわと滲み出る。傷だらけの男は、それに気づくとティッシュを数枚取り出して、滲み出た消毒液を拭った。その動作にぼくはなぜだかひどく腹が立った。きっと鋭い視線をやってしまったと思う。はたしてほんとうは何に苛ついているかはわからないが、いつもより神経が昂っているぼくを見て、ちょっと怯えた色を瞳に宿すこの子犬にもやはり苛つかずにはいられなかった。 「ともかく、病院には行くこと。いいね」  いいね、とぼくは自分が知りうるかぎりの一番強い語尾を使った。 「わかってる」  さっきまでの沈黙が嘘のように、空気を震わす、はっきりとした声だった。 「わかっていないからこうなっているんだろう」 「わかってる」と彼は繰り返した。「もともとあいつはおれのことなんて好きじゃないし、おれだってあいつから離れたい」 「じゃあ、」 「わかってるんだ」  彼の頑なな態度にやはり無性に腹が立ったぼくは、そう、とか、へえ、とか、そういう冷たい言葉をわざわざ選んで口にした。  この間みたいに外で殴られたのではないみたいで、傷のなかに砂利やら汚れは血に混じっていなかった。手のひらの擦り傷のうち、血が滲んでいるところを適当に消毒液で拭き取り、中くらいのサイズの絆創膏を取り出して貼る。窓を開けているからか、それともぼくが冷静だからかはわからないが、前みたいに汗はかかなかった。  しかしいやに静寂が鼻につく夜だった。堪えきれずに窓際のラジオをつけると、ちょうど今週一週間の天気予報を知らせる番組が流れ出す。学生時代から使っている古いソニーのラジオは、たとえなにも問題がなくてもたまに不満げにざらついた音を出す。アンテナを適当にいじってちょうど良い場所に置くと、電波に乗っても朗々としたアナウンサーの声が、示し合わせたように夜の宇宙に吸い込まれていった。  風が吹くとレースのカーテンが揺れて、ラジオのアンテナに触れる。すると、たちまち不満げな音を出す。じじ、じじじと歪んだ音が鳴るのが気に入らなくて、アンテナを固定しながらつまみを回す。ラジオをつけても、風が吹いても、恋人の弟は動こうとしない。ぼくはため息をついた。 「鍵がないなら、今すぐ大家さんに連絡してスペアを借りなさい。それで、家に帰ってゆっくり寝ること。病院には明日行くんだよ」  いいね、と付け足して振り返る。いつのまにか青年はスツールに蹲っていた。丸まった肩は、激しく上下している。 「どこか痛む?」  彼は震えるように頭を振った。立て付けの悪い窓から吹き込む風の音のように、どこからかひゅうひゅうという音が聞こえる。 「ねえ、」とぼくは近寄る。  流線形を描いて、青年は音もなく椅子から崩れ落ちていった。  弟ね、ほんのちょっとだけ体が弱いの。強い子だから、なおのこと心配。  こんなときにもぼくは彼女の言葉を思い出していた。ここではないどこか遠い場所で、彼女が笑った気がした。待って、とぼくは情けない声を出していたと思う。待って、まだ、もうすこしだけ、ここにいて、と。  開きかけの記憶のふたを遮るように、恋人の弟は派手な音を立てて、右肩から床に着地した。受け身なんてあったもんじゃない。落ちたままの姿勢で体を屈め、ぴくりとも動こうとしない。慌てて駆け寄ると、ひゅるひゅる、ひゅるひゅると、か細い呼吸だけ聞こえてくる。  彼がよくする乾いた咳のことを、このときぼくはようやく理解した。恥ずかしかったり、気まずかったり、もしくは季節の変わり目で喉を壊してしまったり、そういうのじゃない。あの低く掠れた声も、子犬のような咳も、彼にとってはもっと深刻で、年季の入ったものだったのだ。  フローリングで苦しそうに体を横向きにし、浅い呼吸を繰り返す。きつく閉じられた目、半開きの口。歪んだ顔には、この世の不幸をぜんぶ閉じ込めるように眉間の皺が深く刻まれている。無力なぼくは、彼の背中をさすりつづける。 「ゆっくり、ゆっくり呼吸して」  ぜいぜいと喘ぐような呼吸音と、およそ過呼吸になっているとは思えないほど強い力で掴まれたぼくのシャツ。それらと静寂をつんざくラジオの切れ切れのノイズは、ひどく不釣り合いだった。ぼくは呆然と彼の背中をさすりながら、在りし日のことをまたひとつ思い出す。  この青年を正面から見たのはたしかに彼女の死後のことだったが、それより前にも、彼女の家で何度か出会ったことはあった。廊下を歩いていると、自室から出てきた彼とばったり遭遇したり、リビングに呼ばれて出ていくと、彼がソファに座っていたこともある。その程度のことだったが、なんとなく覚えている。でも言葉を交わしたことはない。ぼくの存在を認めると、彼はすぐに消えてしまったから。  きみの弟にぼくは何かしてしまったのだろうか。いつか彼女にそう尋ねたことがある。どうして? と彼女が言うので、ぼくは彼に避けられていることをかいつまんで話した。すると、彼女はふわりと笑ってこう続けた。あの子ね、ほんとうはあなたのこと大好きなんだと思う。わたしがあなたの話をするとね、あの子、いっつもじっと話を聞いてくれるの。今日食べたお料理の話とか、ふたりで見た夕焼けの話とか。なんにも口を挟まず、かといって迷惑そうでもなく、最後にはいつも、それは良かったね、って言ってくれるの。みどりちゃん、それは良かったね、だって。ねえ、わたしの弟、素敵じゃない? ちょっと誤解を受けやすいところはたしかにあるけど、でもとってもいい子。みどりさんの弟なんだし、いい子ではあると思うけどね。え、なあに? そんなに気にしているの? あなたの顔見ると逃げちゃうの、あれはまだ準備ができていないだけだと思うよ。あの子は自分の言葉でしか話せないの。不器用で、愛おしい子ども。もうすこし大きくなったら、きっとあなたとも仲良くなれるはずだから、そのときは一緒にご飯でも食べましょう。あなたの手料理、弟もきっと気にいると思うの。 「大丈夫、大丈夫だから、ね」  ああ、たしかみどりさんはそんなことを言っていた。そうだ、だからぼくは彼を夕飯に誘ったんだ。ほんとうにあなたの言うとおりになったな。一匹狼はあんがいぼくに懐いているし、ぼくもこの生きものを憎からず思っている。  彼の呼吸よりすこし遅いテンポで、薄い背中をさすりつづける。ぼくの動作に合わせて、背中は丸く広がり、もとに戻っていく。それを繰り返していくうちに、彼はだんだんと落ち着きを取り戻していった。 「ごめん」と彼は呟いた。 「薬とかは」  壁の向こう側、自分の家を力なく指さした。 「いまから病院に行くかい」  彼はゆっくりと目を閉じる。 「このくらいなら、へいき。薬は、あとで」 「言いたくなければ答えなくてもいいけど、それはもともと?」  彼は静かにうなずくと、ぼくの両肩にしがみつき、上体だけ起こした。その動作よりもゆっくりと彼の瞳がゆらりと揺れて、ぼくを捉える。部屋の明かりを閉じ込めて、彼の瞳は夕映えのような色を真ん中に灯していた。 「昔からこうだった。べつにこの傷とは関係ないから」  彼はふいと顔を背けると、壁を背もたれにしてぼくから離れる。これ以上話すことはないと言いたげに目を閉じ、顎を上げてすうすうと息を吸う。  ぼくの家の真っ白な壁に気怠げに体を預けている青年は、やはり恋人の弟にも群れをはぐれた哀れな狼にも見えなかった。ぼくよりもひとまわりちいさく、七つも若いただの男。好きな人に好かれず、やけを起こしたいのにそのやり方すら知らずに不貞腐れる、ただのちっぽけな人間だった。  額から滲んだ汗が彼の輪郭をつうっとなぞり、首筋の静脈にしたがって伝ってゆく。所在なく彷徨いていたぼくの右手は、気がつくとそれを拭っていた。  青年はびくっと肩を震わし、閉じていたまぶたを思いっきり開いた。 「あ、ごめん」とぼくは謝る。 「あ、いや、こちらこそ」 「ねえ、ジャケットくらい脱ぎなよ。苦しいだろう」 「ああ、うん。そうだね」ジャケットに手をかけ、彼ははたと考える。すこしの逡巡ののち、「いや、もう帰るよ。大家の連絡先だけ教えてくれないか」と言った。そして、驚かせて悪かった、と付け足すと、のそのそと立ち上がった。  真っ暗な廊下をゆく彼の背中は、宵闇に溶けていってしまいそうなほど頼りなく見えた。狼狽えたぼくはぱちんと電気をつける。  彼はぼくの口元あたりを見て、じゃあ、と言った。 「うん、お大事に」  斜め下を見つめたまま、曖昧な笑みを二、三浮かべた。それから、空っぽの肺に空気を満たすことを思い出したように大きく息を吸って、吸い切れなかった空気を補うためにゲホゲホと咳き込む。とたんに顔を歪めて肋骨あたりをぐうっと押さえた。 「どこか痛むの?」 「あ、いや」  彼はぱっと身を翻した。そのやたら機敏な動きが不自然で、思わずぼくは彼の肩に手をかけ、体をこちらに向かせ、嫌がる彼におかまいなしにトレーナーを捲っていた。 「ねえ、これ、なんだい」  白い肌のパレットに、暴力的な色彩のコントラスト。変色した痣、よくわからない切り傷、等間隔で付けられた煙草の跡。明らかにきのう今日の傷じゃないものだらけだった。蹂躙される体。色を持った暴力。彼とあの男の間に流れる問題が、とつぜん現実感を伴って濁流のように襲いかかってきた。彼を渦巻くものの深刻さをようやく目の当たりにし、自分の胃がすっと落ちていくような感覚に陥る。 「あの男にやられたのか」 「そういうプレイが好きなんだよ」 「ふざけた話をしてるんじゃないんだ」 「ごめんなさい」縋るような声で彼はそう呟いた。  聞いたことのない声音に目を瞠ると、みるみるうちに彼の瞳は頼りなく揺れはじめる。とたんに崩れ落ちるように蹲ると、「ごめんなさい、見ないで」と今度はほんとうにぼくに縋り付いた。ごめんなさい、見ないで、と彼は何度も繰り返す。くぐもった声を聞き、この男はなぜこんなにも必死なのだろうかと冷静に思う。  ぼくはふたたび、どうして? という気持ちに襲われていた。  どうして、こんなに酷いことをされても離れられないのだろうか。どうして、顔の傷は隠さないくせに、身体の傷は恥ずべきことのように振る舞うのだろうか。どうして、ぼくは絶望のただなかにいる彼に言葉もかけず、黙って見下ろしているのだろうか。  何か言わなければならないと思い、口を開いてはちょうど良い言葉が見つからず、どうしようもなくなって口を閉じる。いやな夢を見ているのではと思うほど体は現実を拒絶していたが、そんななか、ぼくの脚を掴む彼の手の温もりだけが唯一のほんとうのことのように思えた。  安っぽい蛍光灯のライトが照らす、トレーナーのフードの隙間からのぞく白くたおやかなうなじを覗いているうちに、浮遊感に支配された体の一番奥深くから、この未熟な青年を守らなければという衝動がふつふつと込み上げてきた。  彼女のいない世界で、この青年には食卓を囲む人がいない。死んだ姉の話をしていい人もいない。知らない言葉を教えてくれる人もいない。ただ、好きな男に好かれていない事実に傷ついている。そして、その男から離れられなくて絶望的な気分に侵されている。肉親からも見放されたこの世で、いったい、ぼくでない誰が彼を守るのだろうか。  そう思うと、正しい言葉が込み上げてくるような実感があった。 「苦しみは、ぼくがぜんぶ忘れさせてあげるよ」  だが、思うよりも前に彼の白く、やわな首筋に向かってぼくはそう口にしていた。言葉にして確信する。これこそが彼に言いたかったことなのだ、と。  彼はゆるゆると顔を上げた。真意を測りかねている瞳が、ゆっくりとぼくを見上げる。縋るような瞳を向けられ、ぼくは膝を折り、彼に目線を合わせる。  薄いまぶたをひとつ撫でると、彼は唇を震わせた。そのまま、ぼくの脚を掴む彼の手を取る。 「そのまんまの意味だよ。ぼくに頼ればいい」  言葉の輪郭をとらえた彼は、彼女が死んだあの日、玄関でぼくを見たときのように、瞳を大きくしてぼくを見た。 「……あなたにそういうのは望んでない」  彼は音もなくぼくの手を振り解いた。反動で、ぼくは玄関口で尻もちをつく。  すっと立ち上がると、身体の傷も、ひどい過呼吸も、ぼくの言葉も何もなかったようにひとつ笑みを浮かべた。 「ほんとうは鍵、持っていたんです」 「ああ、そうなんだ」とぼく言う。 「ごめんなさい」  彼の瞳には、失望と拒絶のふたつの光がはっきりと走っていた。
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