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Bonus track 「where is romance?」
『このあとは、本日、海開きしたばかりの〇〇海岸から、お天気情報をお伝えします。』
ラジオからとつぜん爽やかなサマーソングが流れ出し、ずいぶん長いこと黙々と作業をしていたことに気がつく。凝り固まった身体を解すように流れる曲に意識を傾けると、ヒットチャートは今週もほとんど更新されず、売れ筋のアイドルたちが趣向を凝らした愛の言葉を囁いていた。
先週末に買い換えたばかりのラジオは、クリアな音質を売りにしていただけあって、静かなこの家ではよく響く。
いまどきめずらしいですね。駅前の家電量販店で、ふたり並んで安価な型落ちモデルを眺めていたところ、老齢の店員がそう近づいてきた。ラジオがお好きなんです? ああ、まあ、昔から。そうですか、いまはスマートフォンでも聴けますけど、私はこの不便な機械がいっとう好きでね。いやあ、昔から、ですか。嬉しいですね。店員は物好きの若者に感動したのか、その後もなめらかに言葉を紡いだ。お客さんが見ているそのラジオ、やっぱり最新式のと比べると性能が落ちますよ。とくにアラーム機能がずれやすいんです。でも、音質はとても良い。店員に太鼓判を押されたわけではないけれど、ぼくらは気がついたらその型落ちラジオを手に取っていた。
場つなぎのヒットチャートはすぐに終わりを告げ、ふたたびアナウンサーの朗々とした声が響く。ラジオの電波と、窓の外の子どもたちの声、それから上の階の住人が回す洗濯機の音。すべてが遠くで混ざり合い、カーテン越しの淡い陽光に溶ける。季節はいつのまにか色を変え、昼下がりは窓を開けているとぬるい風が吹き込むまでになった。
ぼくらはいま、夜ご飯と平日の作り置き用に大量の餃子を包んでいた。彼とだいたい半分にわけた餃子の皮は、ぼくの分はもう底をついてしまった。正面で作業を続ける彼の手元に視線をやると、のこりの皮は数枚だった。すこし残ってしまったタネをすくって、彼のボウルに押し込む。彼は一瞬だけぼくに目を向けたが、すぐに作業に戻っていった。
これで正真正銘、ぼくは手持無沙汰になってしまった。仕方がなく立ち上がり、寝室兼書斎でまどろんでいた扇風機のスイッチを入れ、窓際のラジオのつまみを回してボリュームを上げる。さっきよりも明瞭にアナウンサーの話し声が聞こえてくる。
『ざんねんながら観光客はまだまばらなので、地元の方にお話を伺ってみましょうか。』
この時間はいつも、地元のラジオ局を流しっぱなしにしていた。この近くの海岸沿いにあるという海鮮丼屋の店主が紹介されていた。店主の案内で、現地リポーターは店の中へ通され、注文もしていないのにすぐに料理が運ばれてくる。
「行ったことある?」と口にすると、ようやくぼくの声を拾ったらしく、ついと顔を上げた。
「店? 海? どっちもあるよ」彼は手を止めずにそう答えた。地元の人なら当然でしょ? とでも言いたげな声色だった。「え、すばるさん、まさか行ったことないの?」
「ない」
「みどりちゃんとも?」
「行かなかった。この街は海に繋がっている、って昔みどりさんが言ってたことは憶えているけど、」
「ああ、たしかにそんなこと言ってたな。ねえ、こんなんでいい?」
皿の上には、彼が作った大量の餃子がぐるりと中心から円を描くように並べられていた。
作るのも並べるのもうまいな、とぼくは感心する。まるでお店みたいだ。どうせすぐに冷凍するから、と無造作に積まれたぼくの餃子とは大違いだった。
「まえまえから思っていたけど、きみ、器用だよね」
「そう? 美大に通ってるからかな」
「え、そうなの」ぼくは驚く。そのような情報は聞いたことがなかった。
「あれ、言ってなかったっけ。器とか装飾品とか作ってんの」
これ、と彼は自分の製作物の写真を見せてくれた。無骨で素っ気ないけど、長く使えそうな器たち。どうやら、大学の仲間とチームを組んで、宣伝用にSNSも運営しているらしい。
へえ、とぼくはまたひとつ感心する。青々とした風がカーテンを揺らした。恋人の弟とこうやって共に時間を過ごすようになってから季節がひとつ過ぎたが、互いにまだ知らないことはたくんさんあった。
「で、海の話は、もう終わり?」
「あ、そうそう、終わりじゃないよ。さっきのみどりさんの言葉だけどさ、当時は大げさだな、って思っていたけど、どんなものか気にならなくもないよね。まあ、でも、ローマじゃないんだから、どうせふつうの鄙びた観光地だろう?」
「ローマ? なにそれ」と彼が笑う。
『このお店のメニューは、この海で獲れた魚をつかった海鮮丼のみ。オープン当初は知る人ぞ知る名店だったそうですが、いまでは、シーズンになると行列が絶えない話題店です。』 「ああ、ここ、ほんとうに美味しいよ。すばるさんは食べたことないんだ、へえ」
未知の食材を舌のうえで味わうように、もったいぶってそう言うので、ぼくは思わず、「ねえ、どんなところ?」ともう一度尋ねていた。
「店? 海?」
「海」
どんな、と彼は首を傾げる。瞳をすこし寄せ、やや考えると、「すばるさん、車運転できる?」と口にした。
ぼくはうなずく。大学生のときに運転したっきりめっきり触っていない、いわゆるペーパードライバーだが、いちおう免許は持っていた。
「おれ、来週に免許取れる予定なんだ。だからさ、」
そこまで言うと、彼は餃子の皮の粉のついた指先で、恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。
*
風に凪ぐ海面は、朝日を反射して、水平線にいくつかの星を落としていた。
暗いところのひとつない朝なのに、星みたいな光が見えるのが不思議だ。しかも、星々は地上すれすれで煌めいている。これが朝焼けというものなのだろうか。
眼前の光景がにわかに信じられず、寝ぼけているのではないかと思い、目を擦る。乱反射する光がすぐに目に染みて、これらがすべてほんとうのことだと知る。
ふたりで海に行きたいと彼が言いだしたとき、子犬のようにはにかむから、すぐにいいよと答えてしまった。それで、どうせなら朝焼けを見にいこうという話になって、寝ぼけ眼をしたがえて、新米ドライバーの運転で海岸までやって来たのだった。
期待していたわけではないけれど、驚くほどなにもない、ふつうの海だった。海開きをしたといっていたが、あまりにも朝早いからだろうか、観光客はおろか、地元の人間ですらまばらだった。かろうじて、漁に行くのか帰ってきたのかという人間がちらほら見られるくらいだ。
海風というのは、ぬるく、いつ何時でも時化ているとばかり思っていた。だから、正面から吹き抜けた鋭く冷たい風に驚き、思わず体を縮こませた。
「七月にしては寒くない?」とぼくは言う。
「寒い」と彼は答えた。
車内に置いてくるか迷ったカーディガンを羽織ってきて正解だった。隣に並ぶ彼を見る。フード付きのパーカーの下には夏を思わせる柄のTシャツを仕込んでいる。足下はビーチサンダル。まさに海に遊びにきた人間の格好だ。
「浮かれた格好をしているのはきみくらいだよ」
「海っていったらこうじゃん」
「そうなの?」
自分の服装をあらためる。リネンのシャツを一番上まで閉めて、深緑色のカーディガンを羽織り、デニムのパンツを履いているぼく。たしかに海っぽさはまるでなかった。
「そうなの!」
彼はパーカーを脱ぎ捨てると、野に放たれた犬のように、砂浜に向かって駆け出した。朝日に照らされて焦げた彼の残像を、目線だけで追いかける。彼は止まることもなく浅瀬まで駆けていき、海面に足を浸すと、くるりと振り返った。
「ねえ、すばるさん、おいでよ。すっごい冷たいよ」
恋人の弟は、朝焼けを背負い、水が跳ねるのもお構いなくはしゃいでいる。屈託なく笑う姿は、年頃の、いうならば大学生の男という言葉が相応しい。いや、大学生の自分は、間違いなく海ではしゃぐような人間じゃなかった。
彼が脱ぎ捨てたパーカーを拾い、かんたんに砂を払う。外気よりもほんのりぬるい、人肌の温もりを感じる。海辺から、もう一度呼び声が聞こえた。仕方がなくスニーカーを脱ぎ、靴下に手をかける。パーカーはゆるくたたんでスニーカーの隣に置いた。
熱を閉じ込めてぬるく、ごわついた砂つぶを素足がとらえる。幼いころ、公園の砂場で裸足になって、これと似たような感触を得たことを思い出す。ジーンズの裾を足首まで折り、彼に倣って走り出すと、すぐに素足の気持ち悪さなんて忘れてしまった。冷たいのと気持ち悪いのと寒いのでおかしくなりそうだ。
「ねえ、やっぱり寒くない?」
「あ、貝殻」隣の青年は、ズボンが濡れるのもお構いなしにしゃがんで貝殻拾い出す。
「ぼくの話、聞いてる?」
「ねえ、これなんて名前か知ってる?」
こはくの手のひらには、先端が欠けた巻貝がすっぽりと収められている。「知らない」とぼくは答える。貝殻の名前なんて、よほどの物知りでないと知らないだろう。
「なんだろう、これ、すっごい綺麗だ」
彼の隣にしゃがんで、綺麗だという貝殻をよくのぞきこむ。陽の光に当たると、ところどころ薄紫に輝いた。たしかに、とぼくは思った。彼は砂のついた手をジーンズの後ろポケットで払い、スマートフォンを取り出して検索をかけていた。
「あった?」
そうやらかんたんには見つからないようで、彼はちいさく唸った。「ない。というか、わかんない」諦めてスマートフォンをポケットにしまった。「昔、みどりちゃんが貝殻集めにやたらとはまってた時期があってさ」
「へえ」
「たしかみどりちゃんが社会人になりたてのころだったと思うんだけど、仕事が終わるとそのまま海に直行してさ、真っ暗な砂浜でじいっと貝殻を探していたんだよ。当時おれはまだ小学生になったばっかりで、だいたい暇だったから付いていってた。で、なにが楽しいのかさっぱりだったから聞いてみたんだ。どうしてそんなに熱心なの、って」
「彼女、なんて?」
「巻貝って、耳を澄ますと波の音がするの、だって。どうやらそれが不思議でしょうがなかったみたいでさ」
「そうなんだ」
「言われて真似してみるとさ、たしかに波の音が聞こえてくるんだ。不思議だよな」
ためしに拾った貝殻に耳を当ててみる。
遠くのほうでさざなみの音がした。真っ白い砂浜、どこまでも続く水平線。小さな小さな孔の向こう側に、広がりを持った風景が聞こえた気がした。
「ほんとうだ」
「でしょ」自分の手柄ではないのに、彼は得意げに鼻を鳴らした。
「こんな小さな貝殻のなかにもこことは違うべつの海があって、そこで暮らしている人いたら面白いよね。覗いてもなにも見えないけど」
「たしかにそうだね」とぼくは言う。「それも彼女が言っていたの?」
「ちがう、これはおれがいま思ったこと、です」
「あ、そう」貝殻から耳を離し、こはくを見ると真っ赤な顔をしていた。「きみ、あんがいロマンチックだよね」
初めてのドライブで助手席にぼくを乗せたがったり、ふたりで朝焼けが見たいと言ったり、とまでは言わなかった。
「悪かったね」
「悪くない。ぜんぜん悪くないよ」
そっぽを向いたまま。
臍を曲げた狼を振り向かせるために、言葉を考える。たとえばこういうのはどうだろうか。それがきみという人間なんだろう。もっと教えてよ。そういおうとして、それはなんだか違うかなと思って口をつぐむ。なんだかぜんぜん自分の言葉じゃない気がする。代わりに彼の名を呼んだ。
「こはく」
彼はちらりとおれを見るとはにかんだ。瞳の真ん中が朝焼けを閉じ込めた。 ちかちかと光る。光っているのはぼくの心。あ、まただ、とぼくは思う。これを見ると、こうなる。
ぼくもたいがいだな、と思わずにいられない。思わず笑みが溢れる。
「なんだよ、やっぱり笑うんじゃんか」
「違うって」
軽く小突かれてよろめく。まずいと思ったときには、仰向けで海にひっくり返っていた。ちょうど耳の下くらいまで海水を感じる。背中がひたひたと満たされていく。
「うわ、ごめん。だいじょうぶ?」
驚いた琥珀が慌てて手を差し出す。掴んで体を起こすふりをして、そのまま彼の腕を思いっきり引っ張った。琥珀はうつ伏せで水 を思いっきりかぶる。
顔を上げると、すぐに抗議の眼差しを向けてきた。
「ちょっと、ねえ」
「言っておくけど、先にやったのはこはくだからね」
「そうだけどさあ、顔はないよ。うわ、しょっぱい。しかも髪まで濡れちゃったじゃん。ねえ、帰りの車、どうするの?」
視線を上げる。朝焼けを背負う琥珀の髪は、濡れそぼった子犬のようにしなっていた。不機嫌なままぶるぶると頭を震わすその仕 草は、まさに子犬そのもの。吹き出すと、ばか、とか、もう知らない、とかそんな怒ってるのかふざけているのかわからない言葉が降ってくる。
まだ寒い海でむきになって貝殻を拾う二十の男と、四捨五入したら三十になる波打ち際で仰向けのままのぼく。瞳が焦げそうなほどうつくしい朝焼けのなかで、ぼくの体を濡らすさざなみだけがほんとうのものみたいに思えた。ヨーロッパのうつくしいビーチなんかじゃなくて、ただの田舎町の鄙びた海岸はぜんぜんロマンチックじゃないし、ぼくたちはぜんぶぜんぶがちぐはぐだけど、不思議としっくりくるのだった。
やっぱりぼくはおかしくなって、笑ってしまうのだった。
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