「黒は好きじゃないの」

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「ねえ、志穂。他の色にしなさいな。黒は、好きじゃないの」  私が黒い服を着ると、祖母は決まってそう言った。  快活で、気の強い人だった。一緒に出かけるときならばともかく、私が一人で出かけるときでも黒はやめろと言ってくるので鬱陶しく思うことも多く、私は言い合いになる前に「私は黒が好きなの」とだけ言い捨てることもあった。  それでも、己を強く持っている祖母のことを尊敬はしていた。父母を早くに喪った私を、決して若くはない女手ひとつで育てるためには、それだけの強さが必要なのだとある種納得もしていた。  そんな快活な人でも、寄る年波には勝てない。記憶違いが増えて、喜怒哀楽が極端になり、鍋を焦がしたことを私に泣きつくように謝ったとき。私は、祖母に施設へ入ってもらうことを決めた。  言うなれば、私は働き盛りだった。  朝早くから仕事に行き、一日忙しく働き、帰る頃には施設の面会時間は過ぎている。職員さんから定期的に来る「他の利用者さんと楽しそうにされていて、特に志穂さんの事はよく話されてますよ」「いつお会いに来られますか?」という電話には曖昧な返事をして、休日であっても自分の疲れやスケジュールを理由に、会いには行かなかった。  元気らしいから。電話でならたまに話もするから。その言い訳は、私と祖母に流れている時間は違うのだと気付く機会も奪い去っていた。  久しぶりに会った祖母は、弱々しい老人の顔をしていた。 「ここだと、万が一の時の処置が遅れるかもしれなくて」 「はあ」 「病院に併設されている施設がありまして、そちらに空きがあるということで……」  食堂の片隅、向き合った職員さんからの説明を聞きながら、私は隣に座る祖母をしきりに見ていた。  車椅子に座った祖母は、転所の必要性を理解しているようには見えない。半開きの口も、時々車椅子を揺する手も、乾いている。  とは言え、私もそこまでしっかり理解できていたかどうかはあやしかった。あの気の強かった祖母がひどく呆けた年寄りの姿をしていることが苦しかった。その姿を見ていられなくて、早々に転所の契約をして、「よろしくおねがいします」と職員さんに頭を下げていた。  独立した施設から、病院に併設された施設へと移り、ベッドで過ごす時間はどんどん増えていたらしい。  人は年を取ると弱る。無理な延命は望まないと祖母は常々言っていて、私もそれでいいと思っていた。  病院からのせっつくような「お見舞いに来ていただけると」という電話がやがて「来てください」という強い口調に変わったとき。  私は、「ああ、死ぬんだ」と悟った。  仕事で着ているスーツ姿のまま、呼び出されたのは病室を訪れる。  顔も覚えていない担当のお医者さんは、私に祖母の状態を丁寧に説明してくれた。きっと専門的な言葉も分かりやすく噛み砕いてくれていたのだが、内容の半分も、私は理解できなかった。  そんな説明以上に、眼の前のベッドで横たわる祖母の姿が、彼女の状態を克明に語ってくれていた。  頬はこけて、眼は落ち窪み、シミが増えていた。点滴の繋がった腕は、骨に皮を張ったような有り様だった。 「……おばあちゃん」  気遣いなのか、お医者さんと看護師さんは病室を出ていた。  私のひどく震えた声に、祖母のの顔がほんの少しだけ動く。  「ああ」というのは、溜息だったのだろうか。私にはもう、祖母の表情が示すものも分からなくなっていた。 「また、黒なんか着て……」  それは、落胆だったのか、ただの軽口だったのか。  判別はつかない。いずれにしても、私は、祖母の最期に彼女が嫌いなものを着て立ち会ったということだけは、事実だった。 ……  祖母の交友関係は狭かった。  反対を押し切って祖父と結婚したことで、実家とは絶縁状態になった。  気の強さが災いして、若い頃に務めていた会社でも友人はいなかった。  娘――私の母にあたる人――を亡くしてからはひどく気落ちして、私を引き取ることになるまでにたくさんの繋がりを、自ら手放した。  思い返せば、近所付き合いもろくにしていなかった。あまり気にしていなかったが、偏屈な老人として避けられていたのかもしれない。  こういうとき、葬式はどうしたらいいのだろう。  祖母が入居していた施設に亡くなったことを伝え、ついでに職員さんに相談したところ、直葬というものがあることを教えてもらった。  紹介してもらった葬儀会社のスタッフさんに関わるのは私だけであることを告げると、本当に他に呼ぶべき人はいないかと、再三念を押してくれた。そのたびに「大丈夫です」と応える自分がおかしかった。  夕頃になり、職場に数日休むことを伝えて、ようやく私は一息つくことができた。  自宅であるアパートの小さな部屋には音が無い。段々と耳の遠くなる祖母に音量を上げられていたテレビも、力強いと言うよりも乱暴な勢いで包丁がまな板にあたる音も、祖母が施設に入ってから消えたまま。そして、二度と戻ってくることもない。  実感は無かった。もっと言えば、祖母が死んだというのもどこか信じられずにいる。  私は、何を弔うのだろう。  空腹感すらも遠くに感じながら、壁を見つめる。火葬は、いつの何時からと言っていたか。あとで書類を確認しないと。  沈黙が耳に痛かった。常に耳鳴りが聞こえるようで、インターホンの音も幻聴であるように思えた。それでも、二度も鳴れば呼び鈴は確かに鳴っているのだと気付く。  よりによってこんなときに訪れるやつなんて。  恨み言を胸中でつぶやきながら、足取り重く「はい」とドアを開ける。  そこにいたのは、時代錯誤とも言えるような、和服を着たおばあさんだった。 「ああ……お久しぶりねえ、志穂ちゃん」  私の顔を見るなりそう言った人のことを、私は今の今まで、忘れていた。  当然だが、私には祖母が二人いる。母方のおばあちゃんと、父方のおばあちゃん。 「……はい。お久しぶりです。おばあちゃん」 「よかったあ。覚えててくれてて。もう、忘れられちゃったかと」  そう言って、からからと気持ちよく笑う。  父の母――私のもう一人のおばあちゃんは、母方の祖母とは違い、とても愛らしい人だった。亡くなった祖母と十は歳が違うというのもあるだろう。それを踏まえても「タクシーの運転手さんにね、年賀状見せて。この住所まで、ってお願いしたの」と笑う顔は若々しい。  年賀状なんて、出していただろうか。言葉にはせず首をかしげた私に、おばあちゃんは年賀状を見せてくれた。印刷された干支を見るに、もう何年も前の年賀状だった。  そこに書かれている、あまり綺麗とは言えない文字は、よく見知っている。亡くなったばかりの祖母のそれだった。 「引っ越してなくてよかった。ごめんなさいね。上がっても、いいかしら?」 「あ……はい。どうぞ、狭いですが」 「ふふ。あんまり広いと落ち着かないものね。これくらいがいいのよ」  冗談めかした言い方に、底に沈んでいた私の記憶が引き出されてゆく。  最後にあったのは、父と母が死んだとき。そのときもおばあちゃんは笑っていた。おそらくは、私と、母方の祖母のために。  祖母が使っていた、座面の潰れた椅子を勧めて、お茶を出す。  湯気の立つそれには手を付けずに、おばあちゃんは言った。 「電話があってね。もう、何ヶ月も前に」 「……誰から、でしょう」 「それはもう、おばあちゃん……穂波さんから」  「おばあちゃんだと、わたしもそうになっちゃう」と一人で笑い、おばあちゃんは続ける。 「たぶん、死んじゃうからって」  なんてことないかのように言われて、息が詰まる。 「本当はもっと早く会いに来たかったんだけどねえ。穂波さんあんまり……うちの方では、良く思う人が少ないから。志穂ちゃんと穂波さんのところに行きたい、って言っても聞いてもらえなくてね」 「あの……おばあちゃんは、その、穂波おばあちゃんと……」 「ふふ、実は仲良しだったのよ」  だった、という過去形は意図したものだろう。そうでなければ、数年前の年賀状を持ってくるようなことは無いはずである。 「わたしはきょうだいがいないから、穂波さんをお姉さんみたいに思っててねえ。穂波さんも、ご実家と、ねえ?だからなのか、よくお話してくれてねえ」  もしかしたら、おばあちゃんもそれを話す相手を探していたのかもしれない。短く相槌を打つだけの私に話す声は、何やら楽しげだった。 「……でも、遅かったみたい」  おばあちゃんは、ふっとさみしげに言った。  テーブルの上に置いてあるのは、直葬について諸々書かれた書類。私の名前と、祖母の名前も書かれている。 「……すみません。連絡しなくて」 「いいの。志穂ちゃんに言ってなかったってことは、穂波さんも、わたしに看取ってもらおうなんて思ってなかったんでしょう」  言われてみれば、きっとそうだろう。言い訳にすがりつくようにして、私は自分を納得させる。 「お葬式は、すぐ?参列される方は?」 「あ……人を呼ばなくていい、直葬にしたんです。お通夜とかやらない、本当に簡素な葬式で」 「そう。まあ、その方が楽だものね。わたしも、そうしてもらおうかしら」  何か言われるかと思ったが、おばあちゃんはあっさりと肯定してくれた。穂波おばあちゃんと違ってご実家との仲もいいのだから、人を呼ばない葬式なんてできるはずないだろうけども。 「じゃあ、ねえ、志穂ちゃん」 「はい」 「人目は、気にしなくていいんでしょう?」 「……まあ、普通の葬式ほどは」  くすくすと、おばあちゃんは笑う。人が死んでその振る舞いは、少し不謹慎じゃないだろうか。  思わずそんなことを考えた私に、おばあちゃんは、更に混乱するようなことを言った。 「喪服も黒じゃなくていいんじゃないかしら。穂波さん、黒嫌いだったでしょう」 「……え」  黒以外の喪服。そんなもの、あるのだろうか。いやそもそも、どこで用意しろというのか。黒いスーツとネクタイで決めていたのに。  そのつもりだった私の中に、しかし、ふつとある思いが浮かぶ。  それも、悪くないんじゃないか。 「……じゃあ、何色がいいんでしょう」  聞いてみると、おばあちゃんはくつくつと肩を揺らして笑った。 「そうねえ。赤なんてどうかしら。穂波さんよく着てたおぼえがあるの」 「赤……スーツは無いでしょうから、着物で借りられますかね」 「来る途中、着物屋さんを見たから、聞いてみたら?」 「着物屋さんなんて、あったんですか」 「まあ。住んでいるのに、知らないの」  「じゃあ、一緒に行ってみましょうか」なんてことを言うおばあちゃんに、気付けば私も釣られて笑っていた。  赤い着物を選んで喪服として使いたいと言ったら、着物屋さんはどれほど驚くことだろう。  もしかしたら、祖母も「こんなときくらいは黒でもいいのに」としかめっ面をするかもしれない。  それならば、言い返してやろう。 「私は、黒好きなんですけどね」 「あら、そうなの?」 「はい。でも、穂波おばあちゃんには、黒嫌いってずっと言われてました」  だから、見送るときくらいは言うこと聞いてあげる、って。
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