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「頭を踏むな」
そんな声を聞いて、ラツィリが楽しげに笑んでいる。
現実の猫の挙動を読み込ませたはずだけど、そういう行動を取る個体のデータだったようだ。
間仕切りの少ない家では、寝床の扉も見当たらず。
ローグの寝姿が簡単に覗けてしまう。
その所為だろうが、ラツィリは地下の工房で眠っていることがほとんどだった。
普段から個室で行動することが多かったから、半ばオープンになってしまっているこの家には慣れられそうもない。
ローグ自身も、そういう家を好んでいるとは思えなかった。
「暑い……」
湿気の籠もる白衣を脱いだ。数枚持ってきていたのは癖だが、汚れてしまって洗濯せずに放っていたことはあまりない。
面倒だなあなんてぼやいて服を投げていた場所に向かうと、脱ぎ捨てていたはずの作業服が綺麗に並べて干されていた。
陰乾しされている五枚の白衣が風に吹かれてゆらゆらと揺れている。
流れてくる風に自分も当たろうとしたのか、その場に少しだけしゃがみ込んだ。
汗が気化して涼しく感じる。
「懐かしい匂い。やっぱり、そういうことかな」
洗剤の残り香に、郷愁めいた感情が起こる。
何度も嗅いだ、慣れた匂い。
それでいて、全く違う環境が感覚をズラしていく。
戻らない現実を抉るような強さでねじ込んできたのは、哀しいことだったが。それよりも考えるべきことが多いので、落ち込むことが難しかった。
「背負っていたもの、受け取ってるからなあ」
壁に背をつけたまま、しゃがみ込んでぼんやりとしているうちに、眠気が頭を占めていく。
「それくらいで」
言いかけた言葉が全く発音になっていないと認識する前に。
呻く声を残して眠っていた。
「こんなところで寝るなよ、体壊すぞ?」
「まってよ、ししょー……もうちょっとだけ」
「誰が師匠だ、寝惚けるなって」
はっとしてローグを見上げるラツィリ、十秒ほど呆けた後に「……本当にボケてたかもな」とよくわからないことを言って見えない場所に行ってしまった。
ローグはそんな姿に疲れてんのかな、なんて感想を漏らして。
「乾いてるな、良い感じに湿度が低いのはこういう時に助かる」
洗っていた白衣の具合を確認して、他の洗濯物とまとめて取り込んでいく。
……。
白衣の下って、あんな薄着だったのかと驚いていたのを見抜かれなかったのは幸運だったと思う。
首元の送風機で体温を下げるのは知っていたけど、それでも足りない暑さだってことのようだったが。
「あの格好で居たってことは、替えの服無いんじゃないのか」
じゃあ一枚くらい持っていけばいいかと除けておいた。自分で取りに来ることもあるだろうし、と思っていると本当に戻ってきた。
ただ、壁の脇から顔だけをのぞかせている。
やっぱり見られたくはないようだった。
体躯にまばらに残る傷痕、裂傷や火傷の後のようだが。モノづくりの途中でできる傷だろう。化学物質を扱うこともあるだろうし、どうしても不注意でそういう傷を負うのも仕方ない。
「どうぞ」
「ありがとう」
一言だけ言って、また引っ込んでいく。
人目を憚らないくらいにどうでもいいという感性ではないようだ。
ローグとしては、とても助かるというか。
それでもやっぱり問題があるというか。
「ぎぃっ」
自分で右の頬を殴った。
意識が一瞬だけ途切れたとき、誰かが自分を見ているような感覚を得る。どこから、と見回すけど人の姿はない。カメラとかならそんな気配を感じるわけもないし、不思議だと首を捻っていた。
窓の外に野良犬が歩いていた。
こちらを一瞥して、何のこともないようにそのまま通り過ぎる。
「野良犬というか、脱走犬じゃないか?」
首輪が見えるから、そう判断したのだが。犬自身もそこまで気にもしていない辺り、放っておかれているように見えた。
「……、……。腹が減れば帰っていくだろうが、その前に誰かに連れ去られても文句は言えないんよな」
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