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「それでも殴り合いの喧嘩になるんだね……」 「いやー、誤魔化しが甘かったなあ」  錘を掛けたような痛みの抜けない右手を、ラツィリが包帯の上からテープでぐるぐると締め付ける。  テーピングとか要らないんだけどなあという間もなく、がちがちに固められてしまった。 「その方が治りが早いから。特に今は」 「今は?」  分からなかったが、聞くこともなかった。  おしまいだよ、と言いながら手の甲を摩るラツィリに礼を言って。 「後続がいるってのを想定できなかったのは良くないな」 「想定してても躱せないでしょ、それ」 「まあね」  右手一つで収まったんならそれでいいか、と楽天的なローグに、ラツィリは呆れたような目を向ける。本当に呆れているかどうかはわからないが、それでいいとは思わないけどねと刺すような口調で咎めていた。 「助かったよ」  真正面にいると、今度はフードを目深に押さえて視線を隠していた。  押さえるまでもなく、上の縁についている鍔のような部分で半分隠れてしまっているのだけど。  じっと見ていると、こっちを見るなと言わんばかりに顔を背けられる。  その動きは見ていて少し哀しいが。 「忙しいから」 「ちゃんと休みなよ? 疲れてるだろうに」 「…………。君もね」  何か間があった。  そう言われるようなことをしていただろうか、と考えるも心当たりはない。  単なる混ぜ返しだったのかもとあまり気にしなかった。  右手が痛くてしばらく生活に支障が出るのを、まったく理解できていなかった蒙昧さというだけのことだったが。  無くなったのなら、外から持ってくればいい。  そうは言うけれど、じゃあどこから何を持ってくるのか。  手段はどうするのか。どれくらいの量で頻度で、と色々考えると面倒臭くなる。 「だからって削られるままでいいわけないんだけどね?」 「人と違って修復には時間掛かるしなあ」  長い時間をかければ、環境は自然の在りようを取り戻していく。  人の開発も、一万年もあれば無と言えるくらいに風化するなんて話もあるくらいだ。  地球もまた一つの生物なのだ、というには早計な気もするが。それ以上のマクロ視点が持てない以上は確定的に言えないだけだ。 「だから、本来私たちが何をしようとしまいと、人が即座に絶滅ってこともないんじゃないかなとは思うけどね」 「…………、あのさあ。枕元でそんな話聞かされるのはどういう意図なんだ?」 「眠れるかなって思って」 「子守唄代わりに講義とかやめとけ」  しかもなんでそんな気まぐれを起こしたのかもよくわからない。  普段は工房で眠っている、それくらいには踏み込みすぎない距離感だったはずなのに。 「なんかあった?」 「発作かな?」  たまに寂しくなるんだよね、と言いように見合わずへらへらと愉しげだ。  真夜中でも熱を持った風が流れている。季節がそこそこ曖昧な地域で、暑い時期の終わりごろといった感覚だ。  夜には気温は下がりはするけど、それでも眠るには難しいと感じるくらいの熱を外気に感じる。ローグにしても普段は小型のサーキュレーターを夜通し動かしていた。 「地下だったら涼しいのに」 「それでも開ける気にならなかったんだよ」 「何かあったの?」  ラツィリだって分かっているように、工房はローグの祖父が使っていた部屋だ。  知る限り数年間、ローグは立ち入るどころか近寄ることもなかったらしく。忘れるようなことでもないなら、何か他に理由があるのかと思うしかない。  何かはあったよ、と答える。  何があったの、とは問わなかった。  きっと、訊くまでもなかったから。 「うーん……まあ、扇風機に当たりっぱなしもよくないからなあ。さすがにクーラーは自前じゃ用意できないし……」  打ち水、氷を配置は効果が薄いし――――なんだか色々案を練っているようだけど、人の眠ろうとしてる横で何をしているんだ、とローグの内心が呆れている。  目の前の問題を見過ごせないタイプなのだろうか、立ち止まってしまうのも難儀だなと他人事のように思ってしまう。  自分だってそうだろう、なんて自答は無視した。 「疲れてる原因ってこれじゃないの? 寝不足でしょう」 「そうかもだけど」 「やっぱり工房で寝た方がいいよ、ここよりもマシだと思うんだけどな」  あんな場所まで布団だのを持っていくのが面倒なんだが、と言ってみれば。掛け布団だけあればいいよと返ってきた。  なんでだろうか? 「涼しいけど、不思議な寝心地だな」 「昨日よりは顔色よくなってるよ。しばらくはここでいいんじゃない?」  工房の半分ほどを占めるくじらの体躯、その上で眠るなんてのを初めて経験した。生物に近い構造であれど、本物の鯨の質感を再現しているわけでもないらしい。  衝撃などに耐えるために、表面を特殊な素材で覆っている。  数十の素材を重ねて作られた表皮は、ゲル素材と似た柔軟性と反発を持っている。  その下にある部分が柔らかくなっていたので、ウォーターベッドに近い感覚だと感じた。あんなものを平然と使えるわけもなく、いつの記憶だったかも判然としない。 「……。あー……」 「全然、眠気が取れてないっぽいね。今日は気が済むまで寝ればいいよ」 「ラツィリの邪魔になるだろ」 「邪魔だなんて。他にやることもあるんだから気にしないよ」  いいからもう少しお休み、と半ば無理矢理に寝かされてしまった。  蒼色の寝床にもう一度沈むと、水の中に浮かんでいる錯覚を得る。 「もうちょっとだけ論理が足りないなあ」  離れた場所から聞こえるラツィリの声が、意識して押さえているように聞こえる。  気にしなくてもいいのだけど、と言おうかとも思ったが、そんな気力も湧いてこない。  気にしていない風で、自分のことを意識に入れている。  そんな感覚がくすぐったかった。 「覚えがないのにな……」  何故か泣きそうになっているのは、どういうわけだろう?
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