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 洪水なんてもの、生まれてから一度も見たことがない。  この世界に生きているのなら、それは誰しもに共通する経験の話だった。  だからこそ、映像で見るよりも強く恐怖を煽られるその様に、その場にいるほとんどが竦んでしまったのだ。 「ほら、らちー。しっかり気を持ちなさい」 「ごめん、兄貴。いろいろと起こりすぎて、今頃混乱してきた」 「仕方ないよ、というか彼はどこだ? この大波で流されると確実に見失うから……いま捜しておかないと」  ローグが琥珀いるかの放水を直接受けたところを見ていたわけではなかったけれど。  まだ時間が経っていないなら、見つけられると踏んだ。  ラツィリは、自身の操る瑠璃くじらの上に乗って、周囲を見渡している。今までのあれこれで、周りは絶え間ない雨に打たれていた。 「濁ってちゃあ分からないよ」  くじらであれば、水を呑んで捜すのも出来るかな……? そんな風に想像した途端に、くじらがその想像のままに動き始めた。  声を上げて止めようとしても意味はなく。  十数秒の間に、くじらが口を大きく開いて。  周囲を沈める大量の泥水を吸い込んでいく。  もとより水を吸い込んで濾過して放出、そういう基本機能そのままの行動なのだけれど、ここまで濁った泥水を浄化したことはなかった。 (想定してれば、浄水機能を強化してたんだけどな)  考えつつ、同時に琥珀いるかの所在も追った。少し離れた場所に、悠然と待機状態でこちらににらみを利かせている。イルカの背に、ラツィリたちと同じように立って洪水の流れを眺めているようだった。  距離が空きすぎていて、互いの声も届かない。  それで丁度いい、と思う。  ラツィリはあんな男の声など聴きたくない。  特にいま、自らのためとはいえ、自身に常に与してきた姉を簡単に切り捨ててしまった薄情さを見てしまっては、もう歩み寄りの余地がないとしか思えなかった。 「……、らちー。中身の洗い出しをしないと」 「うん。ボーっとしてたね、ちょっとだけ」  軽く呆けていたのは現実逃避のようなものだっただろう。  瑠璃くじらの機能を用いて、呑みこんだ水のスキャンを行う。  その間に、エプジオはヴェンラグーンに指示を出していた。琥珀いるかの方に攻撃を仕掛ける準備が整うほどの猶予はなかったが、その場を凌ぐくらいは可能だと判断していた。 「点睛箒星。」  声に合わせて、白い龍がイルカに向かって特攻を仕掛ける。喉の辺りのジェットエンジンもフルに使って、高速で飛びながら同時に過熱していく。  イルカも高圧の水流で応戦、正面からぶつかり合う衝撃で周りに水滴が散っていき。  龍の風に煽られて、横殴りの雨になっていた。 「っく、暴風雨ってこんなんなのか」  苦しそうに呟いているラツィリ、それでも口調には強い興味の色が滲んでいた。  今までに経験したことのない天候に打たれる、それ自体に昂揚を覚えているようだが。  ……見つけた!  くじらの内部から届く信号、そのなかに物体の反応を見てとった。  手首のコンソールからそれを確かめるよりも先に、軽度の噴射によって吐き出す方を選んだ。二十秒ほどの間があって、背面の呼吸孔を模した穴から噴き出した水の中に。 「……ぐあ……」  ローグの呻き。数メーターの高さから落ちてきて、怪我らしいケガも見当たらない辺りは丈夫というよりもやはりくじらの素材による衝撃吸収の方が大きいだろう。  近寄って、ローグの身体を仰向けにする。  胃の部分に両手を当てて、垂直に強く二度押し込む。 「……! が、ぼぁっ」  潰れたホースに似た音を立てて、胃の中の水を吐き出し。  今度は鳩尾に同じく掌底を押し込む。 「っか、がぶ」  肺の中にある水も抜き出しつつ、呼吸しやすくと姿勢を変えた。  そこから先、ラツィリは特に何もせず、ローグの様子を観察している。  無言でじっと見ている姿は、呆けているようにも見えて、それ以上に穿ったような強い色を隠せていなかった。 「……、ぅ。あ」  意識を戻したローグは、状況を認識しようと視線を動かしている。  顔に当たる水滴に邪魔をされて鬱陶しそうに顔を背けるところに、ラツィリの服が遮っていた。  息をつく。  本心の安堵だった。 「おはよう。良い夢見ようね」 「……なんだそれ、壊れてんの?」  べち、と垂れた袖で顔を打った。互いに水に濡れているのでなかなか不快だと言いたげだ。  起き上がるローグは、身体の感覚を確かめてから首を傾げる。  何が引っ掛かるのか、そんなことはラツィリにはとうの昔に予測できていた。それを問い質している暇はないと判断し、遠くで暴れている琥珀いるかの姿を眺める。 「あれが、爺さんの」 「そうだよ。私がくじらを作る前に空を飛んでいた、リファレンス機」  アレグリがいつの間にか接収していたということだが、二人にとってはあまりに異常で容認できない事実でしかなかった。 「本当は、あれを取り返したいところだけどね」 「今は難しいか……まああの爺を除けてからでないと話にならないな」
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