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 冷却された体表に身体を沈めて、ローグは自分の思考に余裕を戻すことができた。  深い息をついて。 「……急に、全身が痒くなってきたんだ」  そう告げると、ラツィリは「そうだろうと思ったよ」なんて返してきた。  やはり分かっていたのか、と思うも抗議する余力は既にない。 「ごめん。怒られるとはわかってたけど、怖くて言い出せなかった」 「怖いって、何が」  答えはなかった。代わりにラツィリの口からはローグの身体に起こっている異変の説明が溢れ出す。  文字通りに溢れてくるようなレベルの情報量だった。  事細かに説明されても、ローグの頭では詳しいことなんて解らない。  ただ、それでも自分の身体が異常なものに変容しかけている、という部分までは分かった。 「人間でなくなるってことじゃないんだ。大きく質は変わるけど」  力が強くなったり、病気になりにくくなったり。  環境への適応がしやすくなる体質に変化していく、そういうもの。 「本当はね? 一気に変化を起こすと完了する前に死んでしまう可能性があったんだ」 「死ぬ可能性……?」 「身体を遺伝子レベルで作り替える、それより前に体質を変えてしまおうって考え方だから。細胞を全部分解して再構成するなんて、考えれば危険だと思えるよね」  パーツを削いで別のものに付け替える。  そういう順序を踏むことでシームレスな変化を起こす準備を進めていた。  一気に変えるなんてのは、全身をバラバラな状態にまで砕いて組み上げる行為だ。そうなると元に戻れる確証がない。 「くじらの撒いていた水に、エーテル素子を混ぜていたんだ。だから、巡航地域の人々は少なからず下準備ができていた」 「街のみんなが、まるごと?」 「気付かなかった? ローグの周辺で、怪我や病気に罹る人が極端に少なかったこと」  重大な病気、大きな事故。  そういう事件を耳にしたことは思い返せば少ない。 「人が、生きるために」 「人ばかりでなく、全ての生き物にも」 「よくわからない生物がいることも?」 「それは自然な進化だよ。ヨーマンディはそこに紛れ込んで、師匠は更にそこに隠れていた」  ローグはぼんやりと考える。  祖父の姿と、常に周囲で楽しそうにしていた人たち。  街の人は、あの時すでに死から遠ざかり始めていたのだろうか。  だからこそ、今まで通ってきた場所に居たどこよりも、のどかな空気に包まれていたのだろうか。 「……、俺はそのまま、同じように染まっていれば良かったのかな」 「そうあってほしいよ、少なくとも私は」  渇いて飢えて苦しむより、ずっと良いことだから。  あの町が起点になると知っていて。  ラツィリもそれを否定せず、継承した。  逃避先なんてことはなく、最初からあそこが拠点だった。 「……くじら井戸も、それを知ってた?」 「当然だよ。師匠と協力関係にあったから」  そうでないと、くじら井戸なんて名前にならないでしょう?  平然と言っているようで、なぜか声が軽く裏返っていた。どうしてだろうかと彼女の方を見れば、さっきよりも気まずそうに視線を逸らしていた。 「もしかして」 「多分考えてることとは違うよ? さすがに変装してローグに頼み事するとかはないから」 「……。そこまで考えてなかったよ」 「あれ、そうなんだ。でも、本当に違うからね。私はローグをここに向かわせる口実を作ってくれって頼んだだけだから」 「みんなでグルになって、か」 「隣のおばさんと蝶さんがすごく楽しそうに乗ってきたけどね」 「あんにゃろう……」  変に下世話なところがあるのはあまり好かなかった。  文句をつける気にもならないから、そのまま忘れそうになる。 「ぐりぐり」 「何してる」  何故かラツィリが、ローグの隣に来て、同じようにイルカの体表に埋まっていた。 「むずがゆい。私も変化が激しくなってるみたいなんだよね」 「同時に来てたのか」 「んや。状況に反応しただけだと思うよ……緊張と疲労が数日間続くと、脳が危険だと判断してるだろうから」  イーサセルの定着には時間がかかるんだよ。  ワクチンの副反応みたいだよね、とか訊かれるけど。そうかもなあとしか返せない。  予防接種の記憶が古すぎて薄いだけだが。 「まあいいや。一緒に人間辞めてしまおう」 「ヒトのままだって。体質が変わるだけ」  なんとなく左手を挙げてみる。ラツィリも同じように右手を持ち上げた。  手を取ってぐりぐりと揉みこんでみた。 「もう少し強くしてみて」 「これくらい?」 「あうー。少し痛いくらいがちょうどいいな、今は」  全身の痒みを打ち消すなら、それくらいでいいのかもと思った。  ローグの方は、体内の不快感でどうにも曖昧な感触だった。 「ここから硬くなったりしないよな」 「それは無いと思うけど」  ふうん、と息をついて。後ろの方に視線を飛ばした。  さっきと変わらず、金緑くじらの姿が見えている。  暢気に眠っていられれば、と疲労に頭が蝕まれているのも分かっていた。 「……、あとでいいか。」 「何が?」  手を二回、強く握って放した。  その回答の意味は通じたのかどうか、反応がなさ過ぎて分からない。 「近いんだろ? 上昇海流、これ以上近づいたら吹き飛ばされそうな圧を感じる」
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