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 目の前に鯨が墜ちている。  蒼色の巨大な体躯を、赤く乾いた地面に横たえてしまう姿は、生物の死骸とはなんだか違うと感じた。それがどんな違和感なのかは、たぶん明白なのに。 「……帰り道にこれか、流石に邪魔だなあ」  ただでさえここ数日で気分がひどく落ち込んでいるのに、普段の通行ですら妨害されると苛立ちが募るのを自覚してしまう。  地面を引きずったような痕跡が見当たるが、それでもここまで巨大な物体が墜ちたのなら振動とか爆発とか、そういうものを見ていてもおかしくはなかったはずだ。  近づいて観察してみる。  全体に青色だが、その表皮が透けている。  そこから内部の構造が検分できるけれど、そんなものを理解できるような頭はない。 「昨日は空にも見当たらなかったから、それ以前か」 「そうだよ。ここを人が通るとは思ってなかったから、置いていたんだが」  上の方から声が降ってきた。  視線を向けるも、空高く浮かんでいる太陽のせいで姿が見えない。  声は若い女性のようだと感じたけど。  向こうは邪魔してすまないねと言いながら、こちらに手招きをしている。足場が近くに置かれているのを見るに、登ってくるように言っているようだ。  別にそこまでしなくとも、回り道をすればいいだろうと思った。が、それでは向こうが不満げにしている。 「見えないところで何されるかわかんないからね」 「別に俺はジャンク漁りじゃねえよ」  ただの井戸番だ、と言ってみたら。  くじら井戸は今動いていないようだけど? なんて返ってきた。 「う。……いや、その始末で連日大騒ぎなんだよ」  ふうん、と向こうはあまり興味が無さそうだ。構っていられないと言った風な反応にも見えるが。フード付きの白衣を着込んでいるので、真横から表情が読めない。  隣まで来て立ってみれば、自分よりも上背はない。  それなのにどこか安定した雰囲気を持っているように見えた。 「それ、社章だね」  女性の服、白衣の袖に縫い付けられたロゴマークを指差す。訊かれた相手もそうだねと頷くのみで、それ以上何も言わない。  こちらとしてもあまり突っ込む気力はなかった、けど。  ただ相手があまりに名の知れた企業の関係者ともなるとそうもいかない。 「こんな何もないところにヨーマンディの人が居るってのも珍しいな。何かの実験とかなんです?」 「あー……そんなとこかな」 「普段、空を泳いでる鯨が地面に降りているのもあまり見ないもんで。密漁とか疑ったんですけどね」 「別に生物じゃないからなあ。喰えもしないのに狩ることないでしょ」  あれ、そうなの?  そう問い返したところで、相手が失言に気付いたらしい。  空を泳ぐ鯨が生物だという認識が現状の社会に根付いていることを、彼女が忘れていたなんてミスなのか。それとも完全にただの抜けた言動だったのか。 「忘れてくれ、って言っても無駄なんだろうな」 「そりゃあね」  それは困ったな、と唸っている。首を傾げた間に拗ねたような表情が覗いていた。  灰のような色の髪が、あまり手入れもされていないのかまとまりなく揺れている。 「なあ、少年」 「何だい、少女」  混ぜ返しには反応を見せないで、続けられた。 「お金あげるから見逃してくれる?」 「それ贈賄じゃない?」  大企業の社員がやっていいことなんかな、それ。そう指摘したら、バレなきゃいいんだよと黒いことを言われた。  知れたらマズいこと、だけど。  知られていないことが結構あるのかもしれない。 「くじら井戸の管理は公務だもんで、縁がないなあ」  自分のミスのせいでその仕事をなくしそうな危機が迫っているのだけど。  だからこそ、その提案に揺らいだのかもしれなかった。
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