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橋を渡り終えた頃には私は汐見さんを見失っていた。
けっこう距離もあいてたし、周りに人が増えたからだけど、一番の理由は道に迷って汐見さんどころじゃなくなったから。
いったい駅はどこなんだろう。こんなことなら行きに会社から乗ってきたルートをそのまま戻れば良かった。
送別会がお開きになったときに調べた乗り換え案内によると、私の家までは月島駅から大江戸線に乗るより、こっちまで歩いて日比谷線に乗った方が乗り換えなしで運賃もニ百円くらい安いと断然おトクだった。なのに肝心の駅が見当たらない。スマホの地図を見れば、GPS的にはもう駅前にいる。でも実際はいない。
その辺に地下鉄の入り口はないかと見渡すけど、それらしきものもない。代わりにレトロな看板に目がとまった。
bar シャノアール
橙色のライトに照らされた洒落っ気のない文字が夜の街にぶら下がっている。
シャノアール、黒猫、たしかフランス語だっけ。シャは猫で、ノアールは黒なんだよって、大昔に瑠奈が教えてくれた。
いつのまにかなくなったけど同じ名前のチェーンの喫茶店が地元にあって、小学生の私たちはありふれた、でも子供にとっては夢みたいなその店でジャンボパフェなる巨大なパフェを食べたことがある。
ちょうどいいな、ここ。
そう思ったそばから、手がふらりとドアを押す。
全然飲み足りず、本当は明日の予定もない。
おざなりな送別会と、捨てられた花束。どちらも消化できないまま帰り道もわからない、身も心も迷子の私の前に現れたシャノアールはちょうどいい、気がする。なんとなく。
店内はウナギの寝床というには短すぎるカウンターだけのバーで、当たり前だけど思い出のシャノアールとは全然違う。
「いらっしゃいませ」という、無機質な声。
「一人なんですけど、いいですか」と言いかけて、思わず私は口をつぐむ。
だって、カウンターの奥にいたのは巨大な黒猫だったから。
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