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髪も靴もそのまま、もちろんクリームも塗らず私はカウンターに座る。
「ソルティドッグください」
「当店、ドッグは取り扱っておりません。犬は、ちょっと」
「ああ、なるほど」
「ピニャコラーダはいかがでせう」
「じゃあ、それで」
「いかかでしょう」という発音のセリフがわざわざ「いかがでせう」とタブレットに表示されるのをいささか鬱陶しく思いながら、私はグラスに口をつける。
どことなく猫っぽい名前のそのカクテルは舌がやけそうに甘くて、ソルティとはかけ離れた味をしていた。まったく、バーとしても仕事が中途半端だ。
「今日ね、送別会だったんですよ。職場の人の」
せめてバーテンダーとしてはちゃんと仕事してね、と思いながら私は口を開く。この場合の仕事とは黙って話を聞くことだ。私に気持ちよく語らせてくれること。
「真面目ないい人でした。でも彼女に嫌がらせする同僚がいて。その同僚は要領がよくて目立つ人だったから、辞めた人はどんどん孤立しちゃって。私、送別会からひとりで帰る彼女の背中を見てたらなんとも言えない気持ちになったんです。お疲れ様よく頑張ったねって抱きしめたい的な。いや、本当に抱きしめはしないけど、二人で飲み直しませんかって声かけたくなったんですよ」
「にゃるほど」
「でも止めました」
言葉が続かない私を、猫がじろりと見る。
声をかけられなかったのは花束を投げ捨てる汐見さんに恐れをなしたから。
当たり前だ。声をかけるならもっとずっと前、ひとりでイジメに耐えている汐見さんにかけるべきだった。
相変わらず私は傍観するだけの卑怯者なくせに、こんな風にすべてが終わった後にしたり顔で現れるなんて最低だ。恥知らずすぎる。
うす暗い照明の下、私を見つめる黒猫の瞳孔は大きく開き、まるでこっちを吸い込まんばかりだ。
なんだっけ、これ。
こういう状況、どこかであった気がする。いや普通に考えれば絶対ないんだけど。そうだ、保育園でやったやつだ。
あーがりめ、さーがりめ、くるっと回ってにゃんこの目って手遊び歌。
そういえばこれも瑠奈が好きだった。だから思い出したのかもしれない。
ごめんね、瑠奈。私、大人になってもまだこんな奴で。
不意に涙が込み上げてくる。「こんな変な店で泣いてたまるか」と「感傷に浸りたくて飲みに入ったんだし、せっかくだから泣いとけ泣いとけ」って気持ちがせめぎあって、どういうわけか鼻に飲んだばかりのピニャコラーダがせりあがる。めっちゃ鼻が痛い。痛いけど涙以上に鼻からピニャコラーダは出すべきじゃない。
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