今宵、シャノアールで

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「……大丈夫ですか」  気がつけば、汐見さんに顔を覗きこまれていた。ほかにも二、三人、遠巻きの人だかりが私を見ている。 「えっと……?」 「急に大きな音がして、振り返ったら倒れてらしたから。大丈夫ですか、救急車呼びますか」 「猫は?」 「猫?」  起き上がった私は辺りを見回す。猫がいないどころか、あのうす暗い店ですらない。  週末の夜の賑やかで明るいありふれた街の歩道、ていうか、シャノアールに入る前に私が歩いていた道だ。どんなに探してもなかったのに、今はすぐそこに日比谷線乗り場を示す丸いグレーのマークの看板も見える。 「私、どれくらい倒れてました?」 「一瞬、ですかね。音がしたので振り返って駆け寄ったら今、というか」  どういうことだろう。シャノアールは?猫は?私、食べられたんじゃなかったの?  もしかして夢?でも倒れるほど酔ってたわけじゃない。それに、一瞬意識を失っただけであんなに長い夢を見るなんてことあるのだろうか。 「やっぱり救急車呼びますね。頭打ってたら大変だし」 「いえ、大丈夫。頭は全然、大丈夫です。ていうかどこも痛くないし、なんかあったら自分で医者行きます。本当に」  さすがにこの往来の中で救急車を呼ばれるのは恥ずかしい。慌てて立ち上がり「ご迷惑かけてすいません。ありがとうございます」と頭を下げた。  それとごめんなさい。今まで、全部。  そう私が言う前に「そうですか。では、これで」と汐見さんは行ってしまった。  追いかけることはしない。ていうか、できない。追いかけて、そんな風に謝って許されようとするのは「ばか」だから。同じバカなら相手に気持ちを押し付けて自分だけスッキリするより、自己憐憫をこするバカの方がまだマシだと思う。しょうがにゃい、しょうがにゃい。あの猫のいう通り、バカはバカなりに汚い自分を許してやんなきゃしょうがにゃい。  階段を降りる汐見さんの背中に、絶対振り返らないとわかっているその背中に、できることはひとつ。遠ざかる彼女の靴音に私は深く頭を下げ続けた。  
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