上原の話

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上原の話

 月曜日の朝の事だ。勅使河原冴華はいつもより少し早く会社に着いてしまった。始業にはまだ時間があり、周囲の同僚とコーヒーを片手に雑談に花を咲かせていた。 「昨日ね、家族で出かけてね。1日留守にしていたんだよ」と営業一課の課長、上原が話し始めた。  上原は同期で1番速く課長になった。将来、この社を背負って立つ優秀な人物だと評されている。派手ではないが、整った顔に落ち着いた低い声、優しげな眼差しをしている。いつもは冷静に仕事をこなしているが、稀にうっかりミスをする。そんな時、上原は整った顔を子供みたいにくしゃくしゃにして『ごめーん』と謝る。数多の女性社員はそのギャップにハートを撃ち抜かれ、上原のミスの後始末を嬉々として処理していた。 「ちょっと汚い話なんだけど、家に帰ってトイレに入ったら、流されていなかったんだ。モノが残ってたんだよ。奥さんも息子も知らないって。それでね。以前、テレビで見たんだけど、空き巣って、絶対にトイレを使うんだって。そして流さない。理由は空き巣に入るのは極度のストレスがかかるから、お腹が痛くなっちゃうんだって。流さない理由は流すと音が出るからなんだ」 「えっ?盗られた物とか無くなった物はないんですか?」と冴華は聞いた。 「うん。探してみたんだけどね。荒らされた形跡は無かった。通帳や印鑑も無事だった。トイレが使われていただけだったんだよ。でも、一通り、家中を確認したよ。すごく怖かったよ。で、結局、異常は見つけられなかった。でもさ、どうしてもこれで一安心って思えなくてさ。なんか違和感があるんだ。でも、もう時間が遅いから寝室に行って、ベッドに横になったんだ。隣には奥さんと息子が平和そうに寝ててさ。僕もそれを見て、肩の力が抜けたんだよ。なんか、僕だけ気を張ってるのも馬鹿馬鹿しいなって。でもさ。気がついちゃったんだ」とそこで上原は言い、周囲を見まわした。「僕たちが家に着いた時、鍵が掛かっていた事とまだ確認していない場所があるって事」 「どういう事ですか?」と誰かの質問が飛んだ。 「うん。鍵が掛かっていたって事は空き巣はまだ家の中に居るって事なんだ。僕たちが出かけていた時には、家の鍵は持って出て行ったからね。鍵が無いと外からは掛けられない。でも中からは掛けられる」と上原は真顔で答えた。 「あの。確認していない場所ってどこだったんですか」と再び質問が飛んだ。すると上原は少しだけ口元を歪め、低い小さな声で言った。「ベッドの下、だよ」  周囲で息を呑む声が聞こえてきた。皆のリアクションが収まるのを待って、上原が口を開いた。 「勇気を振り絞って、ベッドを下を覗いてみたんだ。電気も点けてね」と上原は言い、周囲を見まわし、頬を緩めた。「何も居なかったよ。僕が奥さんと息子に怒られただけだったよ。『パパ、眩しい』ってさ」  そこで、周囲の空気が緩んだ。 「でも、まだ謎は残るんですよね?密室でトイレが使われた謎が」と冴華は言った。 「そうなんだよ。勅使河原さん。実は何者かが潜んでいるかも知れない。何かの勘違いであれば良いんだけどね」と上原は言い、渋面をつくった。  
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