アンフェアの零

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 カラカラと音を立てる氷を見詰めていた彼は、グラスの水滴が机に落ちて広がるのを見届けると、形の良い唇を開く。 「いま、力いっぱいお前を抱き締めたいところだが、ここでは止めておく」  また4秒、彼の言葉を咀嚼した穂高は、危うくグラスをひっくり返すところだった。 「……えっ、ええええ!?」 「落ち着け。あとだいたいこの会話、聞かれてると思え」 「は、はあ?」  反射で店内を振り返ると、幾らかの気配が動いた。ああ、と、さすがに穂高も納得する。実はよくあることだ。  今更ながら、恥ずかしさに穴に入りたい気持ちになったが、ちらりと伺うと、彼はふふっと息を漏らした。 「さすが、マウンド背負ってるやつは違うな。カッコいい」 「なにそれ……」 「あそこに立ってるおまえは、みんなのヒーローだからな」  と、茶化すような声もまた。  まず誓うなら自分自身に、だな、と囁いてから彼は、明瞭な声で言う。まるで宣誓のように。 「俺も自分の耳を信じるしかないな」 「えっ、みみ?」  穂高が聞き返すと、彼は「映画の冒頭であったろう」と応えてくれる。 「主人公が数学が苦手だという下りだ。数式は楽譜で、楽譜は読めなくても、世界が奏でる曲が聞こえればいい……音楽が聞こえるなら、式はあとからやってくるんだ」  ちゃんと耳を澄ませて、音を聞くさ、と。  そろそろ帰るぞ、と言って彼が立ち上がる。穂高も慌てて後に続こうとするが、そこに彼の声が降ってくる。 「ちなみに、正解は〝混ぜたらさっさと飲む〟一択だ」  は、なにが? と言うと、 「さっきの答え」  とだけ。  こたえ…? と首を傾げた穂高が、柚子ソーダの話だ、と気付いた頃には、彼はだいぶん先に進んでいる。これはこれで彼の照れ隠しなんだろう、と気付いたりもする。  穂高にしてみれば、彼も孤高のヒーローだった。  世界が奏でる音楽の(しもべ)として。  そうして彼は、今日も式を探す。
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