アンフェアの零

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「つまり、数式では表せない世界がある、そういうパラダイムの転換だったんだ」  映画でもあったろ、理論をやっていた主人公が、研究室で核分裂の観測の報告を受けるところだ。〝数式どおりなら起こり得ない現象〟を目の当たりにするシーン、  と彼は続けた。 「それを発端に、主人公は核分裂を利用した爆弾……原爆を開発する理論に到達する。そしてそれは成功した。予想を遙かに上回る威力を持った、プロメテウスの火として」  ああ、そういう意味だったのか、と穂高もようやく気付く。  プロメテウスの火、それは映画の中でも繰り返されていた。  ギリシャ神話にある、ヒトが火を手に入れるに至った物語。寒さと飢えに震えるヒトを憐れんで、プロメテウスは神から盗んだ火をヒトに与えた。ヒトは、神を敬うことを止め、大地を破壊し始めた。  その、ギリシャ神話に由来する寓話に、主人公は自らを重ねた。  灰色にも見える彼の瞳は、いつもよりずっと暗い色をしている。 「ヒトは、火を手に入れるべきではなかったと……博士の悔恨はそこにある」  火を手に入れたヒトは、  自らが生きる大地を焼き尽くすかもしれないのに。  彼が手にしたグラスの氷が、カラン、と澄んだ音を立てる。  今、そのグラスの中身はハイボールだ。いわゆる〝酒豪〟な彼はだいたい出先で呑む。だから穂高が運転するのが常で(本当は公共交通機関を使いたいところだが、彼と出かける際は控えている)下戸なのでそれは問題ないのだが、彼が嚥下する琥珀色の液体を、すこし羨ましいと思ったりはする。  なんとか彼の言葉を脳内で咀嚼し、穂高は映画のワンシーンを思い出す。池の畔で、白髪の老人に紙切れを突っ返された主人公の、道に迷った幼子のような。 「じゃあ、式を返された、ということは、あの白髪のおいじいちゃん……アインシュタイン博士も、プロメテウスは余計なことをしたと思ってたん……?」  ヒトに火を与えたプロメテウスを責めた、ということか。  穂高は柚子ソーダをストローでかき回す。下にたまりがちなハチミツを、どうやったら均等に均せるのだろう。  彼は、宙を睨むようにしばらく沈黙していたが、ふっと視線をこちらに寄越して、しばし穂高を見詰めた。それから、ふむ、とひとつ頷いた。 「……火を手に入れたことより、恐らく……試したことを非難したんじゃないか」 「試した?」 「台詞にあったろ、ゼロか? いや、ほぼゼロ(near zero)だ、と」  ああ、と穂高も頷く。  主人公が盟友でもある物理学者の友人とマンハッタン計画を進める中で、トリニティ実験を決行する直前のシーンだ。そのやり取りで主人公は確かめる、ゼロか?と。  しかし、得られる返答は〝ほぼゼロ〟なのだ。 「核爆弾が引き起こす核分裂の連鎖反応……それが止まらずに、大気に引火する可能性を、彼らは〝計算〟したんだ。得られた解は、可能性は極めて低い、ただし0ではない。つまりnear zero」  彼の横顔は真っ暗になった。
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