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<1>嘘はやめられない
「嘘つきは泥棒のはじまり」という諺がある。
高椿舞紘がこの諺を教わったのは今から二十年前、五歳の時だ。
事の発端は「オレオ脱走事件」だった。幼稚園で飼育していたうさぎのオレオ──黒と白のまだら模様だったためこの名前がついた──が、忽然と姿を消したのである。
うさぎ小屋の鍵はスライド式で、子供達が開けられない様に二重ロックが施されていた。それがどういうわけか、大人達が気付いた時にオレオの姿はなく、園児総出で探すことになった。
図書室で紙芝居を食い荒らしているオレオが発見され、皆で一安心と喜び合ったのだが、話はこれだけでは終わらない。
その日のさつき組の帰りの会は、閻魔様の裁きを待つ罪人達の集まりと化していた。
「鍵を開けたお友達がいるはずです。正直に、先生に教えてください」
我関せずと爪の隙間をほじくり返す者、垂れる鼻水に悪戦苦闘する者、欠伸をする者。罪人たちの態度は様々だ。
「いいですか、皆さん」
その様子に、先生の眉間の皺はますます深くなる。
「今日、わくわく広場でお遊びをしたのは、さつき組だけです。そして朝、オレオのお家の鍵がしっかり閉まっていたのを、園長先生が確認されています」
先生は、園児ひとりひとりの顔をしっかりと見つめた。
舞紘の頭は、今日の帰りの会に読むはずだった紙芝居のことでいっぱいだった。「ごきげんのわるいコックさん」を読む係に任命されて、たくさん練習してきたのに、紙芝居はオレオがボロボロに破いてしまった。
──破くなら、他の紙芝居にしてほしかったなあ。
鍵を開けた人が誰かなんて、舞紘には知る由もなかった。ふと、うさぎが大好きな翔くんと、そのお友達のすぅちゃんが犯人のような気がしたが、勘違いかもしれない。
そんな舞紘の心を見透かしたように、先生は目尻を吊り上げてこういった。
「嘘つきは泥棒のはじまり、という諺があります」
泥棒、という刺激的な単語に、園児たちが一斉に顔を上げた。
先生は腰に手を当て、力強く言い放つ。
「嘘をつく子供は、泥棒さんのような、悪い大人になるという意味です」
それから顔を両手で覆い、その場にしゃがみこんだ。今思えば泣き真似だったのだろうが、五歳の子供にそこまで察する能力はない。
「先生が目を開けるまでの間、鍵をあけたお友達は手をあげてください。先生は、さつき組の皆は、泥棒さんじゃなくって、良い大人になれるって信じています」
三角座りをした膝の上で、掌を固く握りしめた。病気のように、心臓がばくばくと音を立てている。
──どうしよう。どうしよう。
翔くんとすぅちゃんの告発を迷っていたわけではない──舞紘が、嘘つきたてほやほやだったからである。
うさぎ探しに走り回っている時、躓いて転んでしまった。痛くて泣いていたら、「舞紘くん、泣いてるの?」とお友達に声をかけられたのだ。
でも、舞紘はこう言った。
「泣いてないもん」
嘘だった。その時、舞紘の頬にはくっきりと二つの涙の川が流れていたのだから。
咄嗟にそう言ってしまったのは、泣くのは恥ずかしいことだ、という教えが強く刷り込まれていたからだ。
母親は、舞紘が泣くとうんと嫌な顔をする。実果子ちゃんのママや、バレエ教室のスタッフさんにも、「恥ずかしいったらないわ」と怖い口調で言うのだ。
その度に、誰もいない裏庭へと駆け込んだ。泣き虫な自分を散々なじりながら、姉が見つけてくれるのを待っていた。
舞紘はお姉ちゃんが大好きだ。頭を撫でてもらいながら、優しい声で「泣き虫のまーくんも大好き」と言われると元気が湧いてくる。
先生の声もすでに耳に届かない。舞紘は心の中で姉を呼び続けた。
──お姉ちゃん、助けて、助けて。
──バレエダンサーにならなきゃいけないのに。泥棒さんになったら、お家にいられなくなっちゃう。
嘘をついたことを後悔した。でも、「泣き虫の自分」を受け入れることも、どうしたって出来ない。
一人の世界に没入したため、事の顛末までは覚えていない。幼い舞紘の記憶には、「嘘をつくと泥棒になる」という、やや曲解した教えのみが残り続けた。
しかし、大人になるにつれ、舞紘はこの認識を改めていった。
そもそも妙な話ではないか。絵本で、道徳の教科書で、手本に示されるのは嘘をつかない正直者ばかり。大層結構だが、本当にそれでいいのかと舞紘は問いたい。
「泥棒になるわけにいかないから」とありのままを告げ、誰かを悲しませることは、果たして本当に正しいといえるだろうか?
時として、真実はひどく人の心を傷付けるものなのだ。「正直者でありたい」という欲求を優先し、相手を奈落の底に叩き落す人間を、誰が好むというのだろう?
だから舞紘は走り出す。レンガ色の陸上トラックの真ん中、緩く弧を描きながらぐんぐんとバーとの距離を縮め、踏切足一本で、この体を二メートル先の宙へと飛ばすのだ。
例えば、こんな風に。
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