<7>嘘からでた実

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「なんでこんな飲み方するのよ」  呆れ混じりの実果子の言葉を、薄い膜のかかった世界で聞く。  曙橋の店に着くなり、舞紘は浴びるようにワインを飲み続けた。最初は喜んでいた村辺も、舞紘が酒をかっくらう姿に興ざめしたのか早々に帰り、店には舞紘と実果子しか残っていない。 「舞紘くん、酔い覚ましになにか出そうか?スープならすぐ作れるよ」  テーブルに伏せていると、進の心配そうな声が頭上から降って来る。 「大丈夫です…ご迷惑をおかけしてすみません…」 「気にしないで、まだキッチンの片付けもあるし。ミカちゃん、何かあったらすぐ呼んでね」  差し出された水を受け取り、再びテーブルに突っ伏す。  実果子はティーカップに温かい紅茶を注ぎながら「侑斗に迎えに来てもらう?」と尋ねた。 「…なんで侑斗の名前が出てくるんだよ…」 「あんたが今も付き合いがある共通の知り合いっていったら、侑斗しかいないでしょ」  瀬名と侑斗の情景がぐるぐると頭をめぐる。瀬名に化粧を施される侑斗の無防備な横顔。甘えたように侑斗の腕を引っ張り、実果子の事を尋ねる瀬名の、桜色に染まった唇。 「──なあ。お前、瀬名玲って人、知ってる?」  紅茶を注ぐ音が止まる。  舞紘は諦め交じりに顔を上げた。実果子の口元は固く強張り、睫毛が僅かに震えている。 「…知ってるのか」 「なんで?」  実果子は舞紘の肩を掴み、無理やり体を起き上がらせる。 「あんたこそなんで知ってるの、瀬名のこと」 「侑斗が地元を出たり、お前と連絡取ってなかったの、あの人が関係してるのか?」  頭がぐらぐらする。吐き気を堪えながら言うと、実果子はぎゅっとテーブルクロスを握りしめた。  自分から切り出した話題なのに、これ以上話すのが怖くて自嘲を漏らす。 「ごめん、なんでもない」  呟いて飲み干した水は、ほんのり柑橘の味がした。 「違うよな、ごめん。あいつ、彼女いたし…高校の時、とっかえひっかえだったもん。馬鹿な話した、ごめん」 「違うって何がよ」 「やめよ、この話」 「誰とも続かなかった」  言葉尻に被せる様に実果子が言う。 「…続かなかったのよ。誰とも。来る者拒まず、去る者追わずっていうか。一番長く続いた子でも、半年だったんじゃないかな」  砂糖も入れていないのに、実果子は意味もなく紅茶をスプーンでかき回し始める。 「別れた子によく相談されてた。手は繋ぐけど、その先は何もなかったって…最初から友達としか見れないなら付き合ってほしくなかったって。全員同じようなこと言うの」  もう良いよ、と言いたかった。聞きたくない。  受け入れる覚悟がないのではない。傷つくのが怖いのだ。  真実を受け止める勇気が、今の舞紘にはない。それなのに、唇が勝手に動いてしまう。 「…じゃあなんで付き合ったりしたんだ」 「侑斗自身、認めるのに時間がかかったんだと思う。…自分が、ゲイだって」  実果子はスプーンを置くと、ティーカップを中途半端な位置に持ったままため息をつく。  脳裏に浮かんだのは、高校生の侑斗の横顔だった。 大人びた雰囲気も、独特な佇まいも、「他人とは違う」ことに悩んでいたからこそ醸し出されていたのではないだろうか。 「あんた、侑斗の噂知らないって言ってたじゃない。誰から聞いたの?」 「噂って…高三の夏休み前に、色々言われてたのって、このことだったのか?」 「そうよ。ものすごい騒ぎだったわ。で、誰から聞いたのよ」 「聞いたわけじゃ…ただ、瀬名さんに会ったから」 「会ったって…侑斗が連れてきたってこと?」 「まあ、そんな感じ」 「そう」  実果子は乾ききった声で言った。 「まだ続いてるんだ、あの二人」  舞紘は黙るしかない。胸に走った傷みがあまりに強烈で、何も言えなかった。  知り合いの恋愛話をただ聞いているだけ。そう思ってやり過ごそうとしても駄目だった。  苦しい。辛い。侑斗に好きな人がいること。その相手が──自分では、ないということが。 「お前も瀬名さんのこと、知ってるんだな」 「っていうか、あたし達の学年で瀬名と侑斗のこと知らないの、あんたぐらいのもんよ」 「…なんで」 「藤沢ってお調子者、いたでしょ。あいつが二人が海でキスしてるところを目撃して、学校中で言いふらしたの」  ああもう、腹の中の物すべてをぶちまけたい。 「…で、みんな侑斗がゲイだって信じたわけ?」 「侑斗が一切否定しなかったからね。写真も残ってたし」 「お前、見たの。その写真」 「見るわけないでしょ。でも…驚きはしなかったかな」  当時の騒ぎを思い出したのか、実果子は徒労に満ちたため息を零す。 「…それが、お前と侑斗が揉めた理由?」 「違うわよ」  実果子は不機嫌そうに唇の端を曲げた。 「別に、侑斗がどこで誰とキスしようと、その相手が男だろうと、あたしが怒ることじゃない」 「じゃあなんで」 「侑斗が瀬名を利用したから」 「…え?」  言っている意味が良く分からなかった。 「なんだそれ」 「あの時、侑斗は他に好きな人がいて…その人を守るために、瀬名と目立つ場所でキスしたと思ったの。だから腹が立ったのよ」 「待て、待て」  よりひどくなった頭痛をなだめようと、こめかみを抑える。 「なんで。は?侑斗が瀬名とキスしたら、なんで…守るってなんだよ」  舞紘の見立てでは、瀬名は侑斗の交際相手のはずなのだ。第三者を出されては辻褄が合わないではないか。  実果子はじっと舞紘の顔を見つめた。 「…なに」 「あんた、本当になにも知らなかったのね」 「知らないよ。多分、俺が入院してた頃の話だろ?」 「まあ、そうだけど」  高三の夏休み前といえば、脳震盪を起こして入院していた頃だ。退院した後は、舞紘に話しかけてくるクラスメイトなどいなかったのだから、噂が回ってくるはずもない。  実果子は深いため息を零した。 「そうね。知りっこないわよね」  あからさまに棘のある物言いにむっとする。 「知ってて欲しかったのか?なら、美術館で会った時とか、財布返す前とか、いつでも言えば良かっただろ」 「言えるわけないじゃない!」  あまりの剣幕に驚いた。急に向けられた怒りに戸惑っていると、実果子が「ごめん」と呟く。 「そうよね…仕方ないわよ。あんただって大変な時期だったわけだし」  急に謝られても困る。何一つ話についていけず、整理しようと必死に考えた。  「…侑斗が瀬名さんを利用した。で、侑斗は他に好きな奴がいた。…まずここから分かんねえ。あの二人、今も一緒にいるんだぞ」  侑斗は高校を卒業するとすぐに瀬名を追って上京をした。きっと、駆け落ちに近かったのだろうと予想している。 「侑斗が卒業式出なかったのも、それが理由なのか」 「あることないこと言われてたから、面倒だったんでしょ。お父さんとの仲もひどかったし…早くいなくなりたかったのよ、あの町から」  その言葉は、思いのほか舞紘の心を打ちのめした。 ──何も知らなかった。  舞紘だって、薔薇色の高校生活を送ったとは言えない。夏に舐めた辛酸は胸にこびりつき、上辺だけの人付き合いで体面を保つことに苦心していた。家族仲だって散々だ。  でも、侑斗はそれ以上の苦境に立っていたのかもしれない。  黙り込む舞紘に、実果子は苦笑いを零した。 「別にあんたがそんな顔する必要ないわよ。あいつは後悔なんてしてないって言ってたんだから」 「…そうなの?」 「そう。美術館で再会したあと、電話で色々近況聞いたら、あの時のこと、何も後悔してないって…ふざけんじゃないわよ」  実果子と侑斗が再び揉めた理由は、ここにあったらしい。  突然姿を消した侑斗を、実果子はずっと心配していた。同時に、侑斗への僅かな恨みもあったのだろう。  なぜ、ずっと傍にいた自分ではなく、瀬名を選んだのか、と。  舞紘にはその気持ちがよく分かった。  あの夏、もし舞紘が傍にいても、侑斗は瀬名を選んだのか──馬鹿な問いが、どうしても頭から消えないのだ。
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