<3>嘘をつかねば仏になれぬ

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 へたり込むようにブランコに座り、しばらく時間を過ごした。  絵梨からは何通かLINEが来ていたが、開かずに削除した。代わりに、SNSでかつて所属していた実業団を検索する。  知っている人、知らない人。笑顔の写真、懸命に練習に打ち込む横顔。舞紘が失ったものを、今もしっかり握りしめて輝く選手たちの姿がそこにあった。 ふいに、足裏の感覚がなくなる。喉の奥がぎゅっと狭まり、息苦しさにブランコの鎖を握りしめた。  絵梨と別れたことに後悔はない。家族がすべての絵梨と、自分がすべての舞紘。いずれ限界がくるのは明らかだった。  家族との折り合いが悪くなったのは、中学一年の夏だった。陸上部に入るからバレエを辞めると宣言した舞紘を、母は決して許さなかった。  記憶の箱が勝手に開き、母の神経質そうな瞳の動きや、青筋が浮かんだこめかみが頭一杯に広がる。  見返したくて、練習に励んで、大会で記録を残して。それでも認められることはなくて、だからまた練習をして……。 ──駄目、駄目だ。他のことを考えなきゃ。  何か楽しいこと。気持ちが楽になること──思い浮かんだのは、侑斗のくしゃみだった。  部屋で荷ほどきをしていると、外からスプレーを噴射する音が聞こえた。誰かが悪戯でもしているのかと庭に出ると、侑斗が水やりをしながらくしゃみをしていて、その音を聞き違えたのだと分かった。  図体に似合わないかわいいくしゃみに、声を上げて笑った。舞紘に気付いた侑斗の表情はどこか恥ずかし気で、その表情が輪をかけて愉快だった。  あの時と同じように笑おうとしたのに、ぽたりと地面に涙が落ちてしまう。  侑斗に、いつ出て行くよう言われるかと思うと不安でたまらない。  最初から本当のことを打ち明ければ良かった。その上で、侑斗が同居を提案するよう仕向けるべきだったのだ。  嘘の上塗りを知られたら、侑斗はすぐに舞紘を追い出すだろう。その時どれだけ惨めな思いを味わわされるか、考えるだけで死にたくなる。  バレたら全てが台無しになる。その前に新しい家を探さなきゃ。  そのままぐずぐずと泣き続けていると、間抜けなくしゃみの音が遠くから聞こえて来た。  気付かず通り過ぎて欲しかったのに、足音はどんどん近付いてくる。 「舞紘。風呂行くなら、これ持ってけ」  足元に籐籠が置かれた。真っ白なバスタオルに、街灯に照らされた葉っぱの影が落ちる。 「…別に、いらねーし」  鼻をすすりながら、どうにか憎まれ口をたたく。侑斗は隣のブランコに座って、長い足を窮屈そうに折り畳んだ。 「なんで泣いてるんだ」 「うるせぇ」  反射的に口走ってしまい、焦った。嫌われたらどうしよう。  だが、侑斗は舞紘のぞんざいな口調も気にする様子もなく、ブランコを漕ぎ始める。  お前はいいよな、と胸の内でやっかんだ。  自分から手放しただけで、地元には待ってる家族がいるんだろ。大学に、バイトに、居場所なんていくつもあるんだろ。  俺には何もない。家族も、仲間も、居場所なんて一個もない。  会社では「元実業団選手の高椿くん」。足は大丈夫、痛くない?気遣うつもりの一言が、生乾きの傷に塩を塗りたくる。セカンドキャリアなんて耳障りの良い言葉も飽き飽きだ。  全部全部、くそくらえだ。  侑斗が立ち上がった。やっとどこかへ行ってくれたと安堵したのに、ペットボトルを抱えて戻って来る。 「舞紘」  いらない、と言おうとしたのに、好きな炭酸飲料だったので受け取ってしまった。 「…普通、こういう時はポカリだろ」  水分と塩分が失われている現状を踏まえて指摘すると、「そういうもんか」と感心されて毒気が抜ける。  仕方なく数口飲むと、侑斗はまたブランコに座った。 ──っていうか、リアクション薄くない?  成人男性が泣きじゃくっているのに、侑斗の表情は全く変わらない。  冷淡なわけではない。それならジュースなんて買ってこないはずだ。人の心の機微を読むのは得意なのに、侑斗の考えていることはさっぱり分からない。 「…卒業式」  ただ泣いていることの気まずさに耐えられず、話題を探す。 「ん?」 「高校の卒業式、雨だったよな」  舞紘達の地元では、三月はまだ雪のシーズンだ。だが、あの日は雨が降っていた。 「それ思い出して泣いてたのか?」 「んなわけねーだろ!」  言い返す舞紘の姿に、侑斗は小さく笑った。月明りを浴びた笑みがあまりに綺麗で、勢いがそがれてしまう。 「確かに、雨降ってたな」  雲一つない夜空を見上げ、侑斗が懐かしそうに言う。 「…卒業式の日、お前どこいたの?」 「どこって?」 「見かけなかった気がするから」  侑斗はブランコをのんびり漕ぎながら、「出てねーもん」と言った。 「え?」 「卒業式、出てない。始発で東京に向かったから」 「…なんで?」  思わず零れ出た問いに、侑斗は小さく微笑んだ。 「俺が欠席してたこと、話題になってたか?」 「…ううん」 「そういうことだよ」  どういうことだよ、と突っ込みかけて気付いた。  なんだかおかしな話だ。侑斗に好意を寄せる女子は多かった。最後の思い出作りに、一緒に写真に納まりたい生徒だっていただろう。それなのに、舞紘の周りには侑斗の不在について触れる人がいなかった。あの、実果子さえ。  来なくて当たり前と受け止められていたのだろうか。だが、何故? ──夏休み前くらいに、色々言われてただろ。  もしかして、舞紘のように、侑斗もなんらかのトラブルの渦中にいたのだろうか。  侑斗は色々な女子と付き合ってはすぐ別れていた。例えば、恨みを募らせた女子達が結託して…違う。この手の話題では、男連中が乗っかってこない。  何も浮かばない自分に、改めて侑斗のことを知らないと思った。  侑斗は立ち去る様子もなく、ブランコを漕いでいる。でも、鶴田や絵梨のように、一緒にいて気が重くはならない。  ──なんでだろ。  引退を告げると舞紘より泣いた鶴田。傍でずっと支えてくれた絵梨。  チヤホヤされるのは大好きなのに、二人の優しさは息苦しかった。何者でもない、自信のない自分を見られたくなくて遠ざけた。  ああ、そうか。侑斗は、実業団にいた俺と、今の俺を比べないからだ。  同情も、励ましもない。ただ、高校の同級生という目線で傍にいてくれる。 それは、今の舞紘にとって何よりも得難い存在なのかもしれない。  無償に恥ずかしかった。侑斗に嘘ばかりついて、感謝どころか、嫉妬を覚えていた自分が情けない。 「…銭湯、行く」  反省と共に立ち上がると、侑斗もブランコを止めた。  一緒に公園を出たものの、やはり銭湯には付き合わないらしい。 「なんか、懐かしいな」  別れ際にかけられた言葉の意味はよく分からなかったが、泣き顔を見られた気恥ずかしさで適当に聞き流した。  侑斗の声は、夜が似合う。
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