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「これが正しい、って思ったことをすぐ行動に移せる…瞬発力っていうの?ハンパないなって思った。だから、侑斗は立派な人間だって俺は思う」
まさか、侑斗にこんな話をする日がくるとは思いもよらなかった。
舞紘は見栄や保身で出来た鎧を手放せない。でも、侑斗は纏わずに生きていける。この差は一体なんなのだろう?
侑斗は頬杖を解いて肩を竦める。
「正しいって言葉は違う気がするな。後々のことを考えられないだけだから」
「後々のことを考えて、嘘で誤魔化しまくる人間より余程良いと思う」
ちなみに、俺のことなんだけど──茶化そうとしたけれど、勇気がなくて言えなかった。
「嘘で誤魔化しちゃ駄目なのか?」
また予想外の発言が飛び出てきた。
舞紘は紙ナプキンで唇を拭ってから、慎重に口を開いた。
「駄目に決まってるだろ」
「なんで?」
「なんで、って…嘘つきは、泥棒の始まりって言うくらいだし」
「諺は諺だろ。嘘をつかない人間なんていないんだから」
「……じゃあ、侑斗は、嘘つかれても良いわけ?」
「お前の頭の中って、良いか悪いかの二択なんだな。真面目すぎって言われないか?」
頭に雷が落ちるほどの衝撃だった。
真面目──俺が?
「なんだよ。鳩が豆鉄砲を食ったみたいな顔して」
「いや、だってそんな…」
初めて言われた。
要領が良いとか、コツを掴むのが早いとか、人付き合いが上手いとか。そう評されることは多かったが、真面目だなんて、言われたことがない。
──やばい。めっちゃ嬉しい。
今まで貰ったどんな褒め言葉より、侑斗からもらった「真面目すぎ」というスタンプが嬉しかった。
「何が良いか悪いかなんて、その時々の状況で変わることだし、どっちに判断がつかないことも山ほどあるだろ」
嘘だって同じだよ、と侑斗は続ける。
「良い嘘も、悪い嘘もある。俺、母親を癌で亡くしてるんだ。絶対治して家に帰るからねって何度も言ってくれてたけど、亡くなってから、その頃はもう余命宣告を受けてたって知った。母さんは俺に嘘をついてたけど、悪いことじゃないだろ」
「…それはそうだけど。でも」
「でも、なんだよ」
「…お前は嘘、つかねえじゃん」
耳が熱い。子供みたいな言葉が恥ずかしい。
本音を明かすのは、なんて体力がいるんだろう。走高跳の方が余程楽だ。
「お前はいっつも堂々として、周りなんて関係ないって態度で…なんか、そういうのって、ずるい」
もう駄目だ、限界だ。羞恥心が臨界点を突破した。胸元にかけていた紙エプロンを持ち上げて顔を隠したが、侑斗にはバレバレだろう。
じっと耐えていると、薄い白い幕越しに、侑斗の「んなことねーよ」という声が聞こえる。
「嘘くらい、俺だってつく」
「例えば?」
薄紙の奥から尋ねる。昨日なに食べたか聞かれて適当に誤魔化すとか、遅刻の言い訳とか、些細な話に決まっている。
だが、舞紘の声が小さかったのか、侑斗は答えなかった。顔の熱も引いた頃、紙エプロンを下げると、優しい瞳とぶつかる。
その途端、何故か再び熱が灯った。今度は顔ではなく、もっと深い、心の奥。
「さっきの話だけど」
「え、なに」
「お前が、彼女と仲直りして欲しいかって話」
ほんの数分前の話だというのに、すっかり忘れていた。
「どっちでも良い」
「……答えになってなくない?」
「ほら、また白黒つけようとしてる」
揶揄うように指を向けられる。瀬名と同じ、気さくな態度だ。目指していた物を得たはずなのに、どこか寂しい気持ちが拭えないのは何故だろう。
「舞紘がこうしたいって思った通りにするのが一番だよ。あの家でずっと暮らしたって良いし…他の場所に行ったって良い。俺達、もう、あの町にしか居場所がない高校生じゃないんだぜ」
その言葉に促されるように、広いカフェを見渡す。
昔だったら、どこかの店に入れば見知った顔と出くわした。けれど、ここに知り合いは一人もいない。
俺はどうしたいんだろう。どこで生きていきたいんだろう。
ふいに気付く。走高跳を失ってから、あんなに未来に目を向けるのが怖かったのに、今、不安を覚えないまま、これからのことを考えられている。
「そろそろ行くか」
「…あ、うん」
本当はもう少し侑斗と話していたかった。同じ家に住んでいるのに、引き留めたくなるなんて不思議だ。
店を出ると、煉瓦道に緑の木漏れ日が揺れていた。その光の中を侑斗は真っ直ぐ歩いていく。
その姿に、卒業式にも出ず、東京へ出た十八歳の侑斗の面影を見た気がした。
不安があっても、知らない道でも、侑斗はこうして歩き続けたのだろう。背筋を真っ直ぐ伸ばし、未来だけを見つめていたのだろう。
──俺も、そうなれるかな。
侑斗を真似て、背筋を伸ばしてみる。陽の光が顔に当たって眩しいけれど、目を細めることはしなかった。
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