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<5>嘘にも種がいる
もうプロのスポーツ選手ではない舞紘だが、体を動かすことが好きな性分に変わりはない。
早朝のジョギングは欠かさないし、社内でもエレベーターは使わず、階段移動を心掛けている。
「最近、調子良さそうね」
五月末、七階の総務フロアを目指して登っていると、実果子が声をかけてきた。
「お前も階段族になったの?」
「別にそういうんじゃないけど。苦手な先輩がエレベーター乗るところだったから、避けたくて」
実果子らしからぬ発言に、これが五月病というものかと納得する。
しかし、調子が良い、という言葉にはピンとこなかった。舞紘の仕事は総務だ。営業やマーケなど、数字が反映する仕事ではないので、実果子が何をもって「調子が良い」と判断したのか分からない。
「BCPのメンバーに手上げしたんでしょ」
ヒールの音を鳴らしながら隣に並ぶ。足首の使い方が、バレエの足さばきを連想させた。
「なんで知ってるんだよ」
「広報部には噂好きが多いから。で、どういう風の吹き回し?」
「別に…他にやる人がいなかったから」
BCPのメンバーは、災害時を想定し、交通機関を使用せずに通勤する日が年に数回設けられている。これがネックで、なかなか人が集まらないとグループ長が嘆いていたのだ。
「ふうん…」
「なんだよ、その目」
楽し気な目線に文句を言うと、ばしりと肩を叩かれる。
「んだよっ」
「嬉しくって。あんたが自分から貧乏くじひくところ、初めて見たわ」
「貧乏くじとか言うな」
実果子の言葉は正しい。ボーナスの評価に繋がりもしない、ただ面倒な業務が増えただけだ。
それでも参加してしまったのは、困り切ったグループ長を見かねてだった。オフィスワークに不慣れな舞紘が溶け込めるよう、何かと気にかけてくれていたことを思い出し、いつの間にか手が上がってしまったのだ。
「あんたもずっと総務ってわけでもないだろうし。良い経験になるわよ、頑張りなさい」
「先輩面すんな」
踊り場についた途端、目の前の防火扉が開いて足を止めた。出てくる相手を先に通そうと待っていると、小柄な青年が顔を覗かせる。
「高椿先輩っ」
鶴田だった。親と再会した迷子のように駆けよって来る。
「お前なにやってんだ、こんなとこで」
「広報誌の撮影で呼ばれたんです。でも、迷子になっちゃって…」
隣にいる広報部の実果子に預けようとしたのだが、「あたし、このフロアに用事あるから」と立ち去られてしまった。
「今の人、中条さんですよね」
「知ってんの」
「美人って有名ですよ。先輩と並ぶと美男美女で凄いって、皆が良く話してたんです」
会うのは四月以来だった。あの時の対応と、目の前の屈託ない笑みに胸が痛む。
「……実業団の皆、元気か?」
鶴田はハッとして口を覆った。だが、舞紘の表情を見て、ゆっくりと手を下す。
「…はい。はい、元気です」
「そっか」
微笑んでも、口元は歪まない。静かに鶴田の話を聞くことが出来る。
「あの、ゲンは足首捻っちゃって、アイシングちゃんとやれって叱られてます。市井先輩は飲み会に高椿先輩がいないと女の子の集まりが悪いって嘆いてますし…」
「お前の腰は、もう大丈夫なのか?」
ごく普通の声音で言ったはずなのに、鶴田はくしゃりを顔をゆがませた。
「お、おいなんだよ。泣くのか」
社内であらぬ誤解は受けたくない。慌てる舞紘に、鶴田はぶんぶんと首を横に振った。
「泣きません、良い歳して…ただこの前、俺、高椿先輩に月陸との飲み会を誘った事話したら、市井先輩にめちゃくちゃ怒られて…」
「なんでだよ。かわいい子でも来てたの?」
茶化す舞紘に対し、鶴田は真剣そのものだった。
「違いますよ、男ばっかです。…舞紘がどんな気持ちで今過ごしてるか、考えた事あるかって言われました」
鼻先を赤く染め、深々と頭を下げる。
「高椿先輩が、誰よりも走高跳に真剣だったこと、間近で見てました。それなのに、久しぶりに会えたことに舞い上がって、自分の気持ちばっかり優先して、本当に無神経でした。申し訳ありませんでした」
鶴田のつむじを見つめながら、初めて会った日のことを思い出した。
まだ鶴田は坊主頭の高校生だった。同じ運動場で練習をしていた舞紘に、真っ赤な顔で挨拶してくれたのだ。
「高椿選手に憧れて、走高跳に転向しました。いつかチームメイトになりたいです!」
鶴田は天性の愛され気質で、誰もが好感を持つ選手だ。そんな人間が憧れの人だと名を挙げてくれれば、自分の好感度も上がるはず──そんな打算もあって、舞紘は鶴田に特別気にかけていた。
「──誰もが通る道だから」
鶴田が顔を上げる。
「俺らはロボットじゃないんだ。体を酷使してれば、いつか引退する日は来る。…俺の場合、思ったよりちょっと早かったけど」
舞紘がしたいようにするのが一番──侑斗からもらった言葉が頭をぐるぐると回っている。
見栄っ張りで、背伸びしている自分が駄々をこねている。これからも憧れて欲しい。尊敬し続けて欲しい。自分が、走高跳の選手じゃなくなっても。
同時に、思い出を懐かしめる自分でありたいとも思う。過去を否定せず、頑張った自分を認めて、他人の成功を祝福したい。
どっちも本音で、どっちも難しい。思い悩み、もがく自分を受け入れてみたい。
「まだ完全に気持ちの整理がついたわけじゃないから、皆に会うのは、まだ少し先になると思う。今はサラリーマン業を頑張るよ。お前が引退した後、働き方に迷わないようにさ」
そのためには、今の仕事と向き合うしかないのだ。やれることはやる。やりたくないことも、ひとまずは引き受けてみる。
「……高椿先輩!」
感極まった鶴田が抱き着いてくる。たたらを踏んで耐えていると、ドアの隙間からこちらを伺っている実果子と目があった。
サムズアップを向けられ、思いっきり舌を出してやる。実果子の猫目が、嬉しそうに細められた。
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