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侑斗は最近、アルバイトの時間をセーブして模型作りに励んでいる。必然的に顔を合わせる時間が増え、舞紘も少しだけ手伝うようになっていた。
「え、これ花の部分切っちゃうの?」
カスミソウを片手に尋ねると、縁側に新聞紙を引いていた侑斗が「そうだよ」と言った。
「枝だけ残して、スプレーで染めるんだ。で、花をとった部分に糊つけて、紙粘土パウダーの上で転がす。街路樹の出来上がり」
実際やると、知育菓子を作る感覚で楽しかった。ピンク色の紙粘土パウダーを使えば桜、緑を使えば新緑樹に見える。
侑斗は庭に降り、大量の割れ物包みを緑のカラースプレーで染めている。校庭の芝生に使うそうだ。
コンペのテーマは、「尊重できる小学校」。なんとも曖昧なテーマだが、侑斗には確たる構想があるらしく、図面も早々に完成していた。
後は模型だけと勤しむ姿に、羨ましさは消えなかった。だが、一緒に暮らし始めたような、ドロドロとした感情は湧き出てこない。
侑斗が見ているものを覗いてみたい。不思議な好奇心で手伝っていた。
「そーいやこの前、実果子に会ったよ」
「へえ」
淡泊な返事に、二人が未だ喧嘩中と察する。
仲直りをされれば嘘がバレる。この家に住んでいる間は喧嘩を続けていて欲しい──そんな勝手な考えは徐々に消えかかっている。それどころか、いっそ本当のことを話してみようかと思い始めていた。
実業団を引退したこと、彼女とはもう別れたこと。打ち明けたら、侑斗はなんて言うだろう。
「どうかしたか?」
「なんでもなーい」
それでも実行できずにいるのは臆病だからだ。聞き終えた後の侑斗の反応を想像するのが怖い。
──もし、出ていけって言われたらどうしよう。
いつもこの考えで行き止まりになる。
都合が良いから同居しているだけ。気が合う相手ではなかったのに、どうも、自分の中で侑斗の立ち位置が変わってしまった気がする。
実果子のようにあけすけに言い合える仲ではない。長年腹の内を見せずに生きてきたせいで、友人の定義を見失ったのだろうか。
二十本ほど作り終えると、侑斗が「休憩しよう」と声をかけてきた。縁側は模型材料で溢れているので、台所に移動する。
「建築考えるのって、楽しい?」
「楽しさ半分、しんどさ半分かな」
コーヒーの用意をしながら侑斗が言う。
「アイディアを頭に浮かべてる時は楽しいけど、法律と照らし合わせたり、図に起こし始めていきずまったりするとしんどい」
チョコアーモンドをつまんでいると、侑斗が突拍子もないことを言い出した。
「お前も建築の勉強してみるか?」
「何言ってんだよ。もう勉強する根気ねーよ」
「成績良かっただろ」
「お前程じゃないし」
ふと、侑斗の家業が工務店だったことを思い出す。今建築の勉強をしているのも、いずれは地元に帰るためなのだろう。
何年後かは分からないが、寂しいなと思った。舞紘が地元へ戻ることはないから、侑斗が東京を離れたら会えなくなる。
「お前が親父さんの会社継ぐ時は教えてくれよな。お祝い送るから」
あの雪の町で、侑斗はどんな建物を作るんだろう。公共施設、住宅…侑斗ならなんでも作れる気がした。直接見れないのは残念だが、写真くらいは送ってほしい。
侑斗はグラスを二つ出すと、氷をいれてコーヒーを注いだ。熱を持ったままの黒い液体が、氷の角を柔らかく削っていく。
「地元には帰らない」
カラン、と氷同士が軽い音を立てる。
「家と折り合いが悪いんだ。東京出てから、一度も会ってない」
そう言い残して、グラスを手に居間へ向かう。
広い背中を見ながら、舞紘はシンクにもたれかかり、アイスコーヒーを飲んだ。
これ以上踏み込むな、と釘を刺された気がする。
侑斗は居間の机に置かれた見取り図を眺めている。高校時代、クラスの輪に入らず、一人本を読んでいた姿が重なった。
誰にでも明かしたくないことはある。見せる部分と見せない部分を上手に選んでこそ、良好な人間関係が築ける──ずっとそう思っていたのに。
自分から明かせない何かを、誰かが尋ねてくれるのを待つ人もいるのだと知ってしまった。舞紘が自身の嘘を白状したいと思っているように。
「おい、狭い」
あえて密着して隣に座ると、侑斗が抗議の声を上げた。
コーヒーの匂いにまじって、シトラスに似た香りが漂ってくる。侑斗の香りだ、と意識した瞬間、心臓がどくんと跳ね上がった。
──なんだこれ。
「おい、舞紘」
「あ、はいはい」
慌てて体を離す。侑斗の顔は見れなかった。
「スプレーの匂い、きつかったか?」
庭から漂う香りなんて気付いていない。だが、舞紘はへらへらと笑って誤魔化し、見取り図に目を落とした。
「へー、これお前が描いたんだ。すごいじゃん」
なだらかなスロープからはじまり、Y字型に校舎が分かれている。舞紘の作った木々は校舎を取り囲むようにぐるりと配置されるらしい。
「あれ。これ、頼まれてなくない?」
校庭の隅に書き込まれた『シンボルツリー』という文字を指さす。
「どれだ?」
侑斗の顔が近付く。また心臓がばくばくと言い始め、舞紘はおおいに慌てた。
──え、なんで?不整脈?
百メートルダッシュの後みたいに心臓が忙しない。動揺する舞紘をよそに、侑斗は「ああ、これか」と伏し目がちに呟いた。
「それは良いんだ。俺が作るから」
「そ、そっか。シンボルツリーってなに?」
鎮まれ、と自分の心臓に命令を下す。台所に立って水を飲んでいる間、侑斗が説明を続ける。
「昔からあるだろ、子供が生まれたら木を植えるとか、住宅街にコブシの道、とか名前をつけて、そこにひたすらコブシを植えるとか」
「海の傍に松があるのと同じ?」
「それは防風林。まあ、今回の場合は校庭で一番綺麗な木ってところかな」
「なのに、こんな端っこに植えちゃうわけ?」
侑斗が今想定している場所だと、校舎から死角になってしまう。
心臓も落ち着いたのでまた隣に座ると、侑斗はじっと舞紘の顔を見た。
「…なに?」
「いや。この木はこのままで良い」
「ふーん」
建築は舞紘の専門外だ。きっと、侑斗なりのこだわりがあるのだろう。
侑斗はアイスコーヒーを飲み干して腰を上げた。また作業に戻ろうとしているようだ。想定より早い動きに、慌てて侑斗のTシャツの裾を掴む。
「…なんだよ」
「もうちょっと休めば?」
「スプレーもそろそろ乾いたし、別に良い」
それでも、舞紘がじっと顔を見つめていると座り直してくれた。
「何か話したいことでもあるのか?」
だから、聞き方が直球すぎるんだって。
「…侑斗さ。俺に、聞きたいことない?」
こんなずるい言い方しかできなかった。
そろそろ疑問に感じても良いはずだ。実業団を休む、という言い訳はまだしも、その間寮を出られるなんておかしいなとか、彼女と仲直りする気はないのか、とか。彼女ともう別れてるんじゃないのか、とか。
できれば後者を先に訊いてほしかった。その方が話しやすい。別れた理由は価値観の相違としておこう。
「あるよ」
「なに?」
期待を込めて見つめる。
「縁側で飯食った夜、公園で泣いてただろ。なんで?」
一瞬、何の話か分からなかった。
侑斗と暮らし始めてすぐ、何もかもに嫉妬していた時期のことだと思い至り、恥ずかしさで顔が赤くなる。
いっそとぼけてみようかと企んだが、侑斗は追及の手を止めない予感がした。
「えーっとお…」
卓上を濡れ布巾で撫でながら、どう誤魔化そうか考える。侑斗は妙な所で鋭いから、その場しのぎの言い逃れは危険だ。
あの時は、元カノから電話がかかってきて、家族のことを思い出して。実業団のことも尾を引いていて…。
──いや、待てよ。全部ブチまけるなら今じゃないか?
ここに、侑斗についていた嘘のすべてが詰まっている。チャンス到来、一攫千金!
「舞紘?」
「えーっと…」
今だ、今だと鼓舞する。全部白状してしまえ。実は彼女と別れてて、実業団も辞めていて…。
「舞紘、大丈夫だ」
その声に顔を上げる。高校時代は決して向けられることがなかった、優しい眼差しがまっすぐに心を射抜く。
「全部知ってる」
「…侑斗」
やはり侑斗は見抜いてたのだ。舞紘の拙い嘘も見栄も。
打ち明けるタイミングを待ち続けた忍耐力に感謝した。決意と共に切り出そうとした時、侑斗が言葉を続けた。
「高校時代、お前、よく泣いてただろ」
ぴたり、と体の動きが止まった。
「水飲み場の裏に、でかい木があっただろ。そこでよく泣いて…なんだその顔」
「なんでお前が知ってるんだよ!」
「うわっ」
振り投げた布巾が壁にぶつかる。
──ありえない、ありえない、ありえない!
確かに舞紘は泣き虫だ。部活がきつい時、思うような記録が出ない時、度々涙を流していた。
泣く姿を見られるのはプライドが許さない。校舎、グラウンド、あらゆる場所から死角になっていることを確認した上で選定したのが、水飲み場の裏手、大樹の根元だった。
「俺もよくあそこにいたんだ」
「…会ったことないぞ」
「木に登ってたから」
「何してんだよ!」
「絵描いたり、色々」
さすがの舞紘も木の上までは確認していなかった。確かにあの木は枝が太く、生い茂った葉は鳥の姿も隠していた。
「俺、チャリ通だったんだけど、駐輪場までチャリ置きに行くの面倒でさ。あそこの茂みに隠してたんだ」
侑斗が公園で「懐かしい」と言った意味がやっと分かった。秘密を暴かれた怒りに震えながら、地を這う声で尋ねる。
「…お前、この話誰にもしなかっただろうな」
「しねーよ」
侑斗は心外だという表情で目をすがめる。高校時代に向けられていた視線を思い出し、場違いな懐かしさに包まれた。
「…なんで。良い笑い話じゃん」
「俺はお前を笑い者にしようと思ったことなんて一度もない」
言われてはっとした。
住処を追われたことも、カツアゲにあう同級生を見捨てようとしたことも、いくらだって馬鹿にできる。だが、侑斗は一度として笑ったことはなかった。
「お前が泣くの、大抵大会が近い頃だっただろ。スランプだったり、プレッシャーだったり感じてるんだなって思ってた。でも今は…お前が泣く理由が俺には分からない」
侑斗の真摯な眼差しに、胸が潰れそうだった。
高校生の頃のように、不機嫌そうに視線を逸らして、どこかへ姿をくらましてくれた方が気楽で良かった。そうすれば、お前には関係ないとか、適当な冗談で跳ねのけられたのに。
「…色々だよ」
投げやり半分、三年間泣きっ面を見ていても、誰にも話さずにいてくれたことへの感謝が少し。他の感情もある気がするが、よく分からない。
「色々って?」
「全部。今までの嫌なこと、ばーって思い出しちゃうことがあるんだ」
床に落ちた布巾を拾い上げて固く絞る。何も出ないと思ったのに、数滴雫が落ちた。
どこまで話すかの線引きに迷いながら、ぽつりぽつりと言う。
「うちの母親、バレエ教室やってるだろ。もうすごいスパルタでさ。俺は才能があったからまだよかったんだけど、姉ちゃんへの態度がひどかったんだ」
「下手だったのか?」
「踊りは上手かったよ。問題は体型。姉ちゃん、バレリーナにしてはちょっと体がでかかったんだ。一般人からしたら全然普通の体型なのに、少しでも体重が増えたら飯は食わせない、走らせる、それでも痩せなかったら存在ごと無視。家の中が刑務所みたいな空気だった」
食卓に並んでいたのは薄いおかゆ、ゆでた野菜と卵にサプリ。冷蔵庫を開けるには母親の許可が必要だった。
「中学に上がって、うちってなんか変かも、って思い始めた頃に、陸上部に勧誘されてさ。母さんが姉ちゃんにあたるのは、俺と比較してる部分もあったから、俺がバレエ辞めれば家の雰囲気も変わるのかなあって思ったんだ。で、走高跳に乗り換えることにした」
だが、その目論見は外れた。
「もしかして、お前の姉貴がエビ先とデキてたのって偶然じゃないのか」
懐かしいあだ名に、思わず吹き出してしまった。
「なんだよ」
「お前、海老原先生に体育教わったことあったっけ?」
「ないけど」
「なのにエビ先呼びって…」
朱色のジャージをよく着ていたことと、海老原という苗字からついた安直なあだ名だ。
「教師のあだ名なんて、伝染するもんだろ」
「だな。えーと、で…」
笑いで浮かんだ涙を指ではじき、頭を整理する。
「姉ちゃんとエビ先のことだけど。あれ、姉ちゃんの俺への当てこすりだよ。勝手にバレエを辞めたくせに、走高跳で有名になるのが腹立ったんだって」
優しかった姉が、無表情で言い放った言葉が忘れられない。
姉は大学生で、海老原は独身。何も悪いことはしていないと言われ、舞紘にはどうすることも出来なかった。
何より、ショックで心がついていかなかった。優しくて、家族の中で唯一の味方だと信じ切っていた相手に裏切られた事実を受け止め切れなかったのだ。
その時から、姉は母の分身のように舞紘を無視し続けた。高校を卒業してからは、一度も顔を合わせていない。
どうしようもないことが、世の中にはあるのだと言い聞かせた。大切なのは、相手の心の機微を見落とさず、余計なトラブルに巻き込まれないこと。そのためには、嘘をついたって構わない。
そう思って生きてきたけれど、今、舞紘には分からなくなっている。もっと違うやり方があったんじゃないか。どこかで、ボタンの掛け違いに気付けたのではないかと自分を責め始めてしまう。
「もう一個、聞いても良いか」
その思考を止めたのは、侑斗の声だった。
「今お前が走高跳から離れてるのは、三年の時の怪我が原因なのか」
言うタイミングを見計らっていたような、駆け足気味の声だった。沼に沈んでいきそうな思考を止め、三年の怪我、三年の怪我と頭の中で繰り返す。なにせ怪我ばかりの競技人生で、すぐには思い出せなかったのだ。
「高三の夏休みのちょっと前。お前、入院してただろ」
「…ああ」
あの頃の話か。
高校三年の夏、姉の醜聞が囁かれる中迎えた県大会で、頭からマットに落ちて脳震盪を起こしたのだ。すぐに練習に戻ろうとする舞紘に業を煮やした医師は、数日間の入院を指示した。
「全然違うよ。足首の怪我を繰り替えしたのが原因だから」
本当の引退理由を告げると、侑斗はなおも確認をとってくる。
「…脳に影響が残ってて、とかじゃないよな」
「ないない」
侑斗は安堵の息を零し、仰向けに寝そべった。
「…よかったー」
「ってか、よく覚えてるな、お前」
「好きだったからな」
ありふれた言葉にどきりとした。
「お前が飛んでる姿、美術部の窓からよく見てたよ。…すげえなあ、何であんな風に飛べるんだろうって思ってた」
「なんだよ、お前、俺のファンだったのか?」
侑斗の誉め言葉は、他の人と違って聞こえる。何がとは言い表しにくいが、とにかく、特別だと感じた。真っ直ぐな人柄を知っているからだろうか。
「あの時言えば良かったのに。サインでも書いてやろうか」
「いらねえよ」
拗ねたように視線を逸らす姿が可愛く思えて、隣に寝転び肩をぶつける。その衝撃で、凪のような眼差しが揺らぐのを見て、ますます嬉しくなった。
突然尋ねたくなった。卒業式、俺が声をかけたら、出席したか?と。
けれど口にはしなかった。過ぎた時間に「もし」を積み重ねても意味はない。
「…あのさ」
自分の居場所なんてどこにもないと、寂しさに身が引きちぎられそうな夜はあったか尋ねたい。でも、あったよ、と言われたら、ひどく落ち込む予感がした。舞紘が経験したものと同じ不幸を、侑斗には過ごして欲しくなかった。
侑斗から自分がどう見えているのか、改めて考えると不安になる。泣き虫?見栄っぱりで、嘘つき?
言おう、言わなければ。今の話にも少し嘘があって、本当は、俺は…。
──駄目だ。やっぱり言えない。
もし、全く異なる人に見えていて、だから今もこうして隣にいてくれるのならば、その姿を演じきりたかった。
侑斗に嫌われたくない。その気持ちと同じくらい、侑斗のように真っ直ぐ心を明かしたい。
相反する欲望が頭の中でぐるぐると回り、答えは導き出せない。
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