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侑斗なら覚えているのだろうかと家に帰ると、玄関に見慣れないスニーカーが置かれている。
マジかよ、とため息を零しながら居間を覗くと、案の定瀬名の姿があった。
「あ、舞紘くん。おかえりー」
ご機嫌そうに振り返る瀬名の指先はクッションファンデのパフが握られており、そのパフは侑斗の頬に触れている。
二人のあまりの距離の近さに、舞紘は言葉も失って立ち尽くした。
「…何してんの」
ようやく絞り出した声に、侑斗はそっけない視線を瀬名へ投げる。
「瀬名さん。もう終わりにしてください」
「なんで。まだファンデしか塗ってないじゃん」
「飯の時間。腹減ったし」
ほら、とぞんざいな仕草で瀬名を払うと、侑斗は洗面所へと立ち去って行った。
「どうしたんですか、これ」
食卓に広げられた化粧品に気付いて尋ねると、瀬名は「雑誌の撮影で貰った」と答える。
「最近ローンチしたユニセックスのコスメなんだって」
「はあ」
カタカナばかりの説明に頷くと、化粧を落とした侑斗が台所へ消えていった。どうやら瀬名はこのまま夕食を共にするつもりらしく、三人分のカレーライスとピクルスが食卓に並ぶ。
「じゃ、侑斗がISKコンペの締め切りに間に合ったことを祝って」
ビールを掲げて乾杯の音頭も取り始め、場の空気は瀬名を中心に回っている。侑斗を前に不満を口にするわけにもいかず、笑みを取り繕った。
「終わって良かったな」
「ああ。色々助かった」
侑斗は携帯を見せながら、瀬名にコンセプトや苦労した点などを説明し始めた。専門用語が多くて分からない部分もあったが、不思議と最後まで聞き入ってしまう。
「なんで敷地の端にシンボルツリーを置いたの?真ん中の方がバランスよくない?」
模型の写真を拡大しながら、瀬名が怪訝そうに尋ねる。
「学校には色々な子供がいるから。エスケープの場として活用してほしくて」
「ふーん。…舞紘くん、なんか顔赤くない?」
「カ、カレーが辛くて」
まんま俺のことじゃねえか、と思いながらカレーをかきこむ。
そんなこと、手伝っている時は一言もいわなかったくせに。舞紘のことを思いながら制作に取り組んでくれたのだと知れて嬉しい反面、また心臓の鼓動が早くなった。
「瀬名さんはなんの雑誌に載るんですか?」
話が一段落ついた頃に尋ねると、瀬名は「インテリアの雑誌」と茄子をよけながら言う。
「瀬名さん、業界では名の知れた人なんだ。この前も大きな賞を受賞して、今日はそのインタビュー」
「へえ、すごい」
「舞紘くんは会社で何の仕事してるの」
「総務部です。今は株主総会の準備とかでバタついてて…あ、そうだ。侑斗、今回実果子が司会するんだぜ、聞いたか?」
「へー」
侑斗はさして興味もなさそうに、瀬名が残した茄子を食べている。瀬名もそれが当然と言った様子で、舞紘はなんだか面白くない。
「実果子、お前が何してるかあんまり知らない風だったけど」
「マイナスな妄想ばっかりしないように言っといてやってくれ」
「ってか、まだ喧嘩中なの、お前ら」
「まあな」
「なんで?」
「──あのさ、実果子って誰?」
ビールから麦茶に飲みかえた瀬名が尋ねる。
「この話は終わりで」
「ねえ、実果子って誰?」
「誰でも良いでしょ」
「良くない」
腕を引っ張って食い下がる瀬名に、侑斗はそっけない口調で答える。だが、腕を振り払ったりはせず、瀬名の好きなようにさせていた。
その姿と、侑斗の話をする実果子の得意げな表情を比べて苛立ちを覚える。肩入れをするつもりはないが、蚊帳の外に置かれている彼女が可哀そうだ。
「侑斗の幼馴染ですよ」
瀬名が顔を上げる。
「家も隣で、幼稚園から高校までずーっと一緒だったのに、そいつ、高校出てから一切会ってなかったんです。今日だって侑斗の家族とのこと色々心配してたのに…お前はもうちょっと優しい人間だと思ってたけどな」
後半は侑斗に向けて言ったが、返事はなかった。瀬名も眉間に皺を寄せて黙り込み、食卓には奇妙な沈黙が落ちる。
「宝塚の男役みたいに、目鼻立ちがはっきりした顔立ちの子?」
「…はい、そうです」
「舞紘くんみたいに、華奢で手足が長い」
「そうですね」
瀬名は実果子の面立ちの特徴をしっかりと捉えていた。侑斗が写真でも見せたのだろうか。
「舞紘くんは、その子とどういう関係なの?」
「どうって…うちのバレエ教室に通ってたんです。高校も一緒で、今は会社の同期で」
「それで、二人で侑斗のこと話してるんだ」
「はあ、まあ…」
「瀬名さん、もういいから」
侑斗は明らかにこの話を切り上げたがっていた。理由を尋ねようとすると、瀬名が一切の表情を消して舞紘に言う。
「君、いつこの家出て行くの?」
「…え」
唐突な質問に反応ができなかった。
「侑斗。お前がなに期待してるのかは分かるけどさ、無理だよ。いい加減現実を見ろ」
「見てます」
「へえ。じゃあ、今俺がここで話しても良いってことだよな?」
「やめてください」
侑斗が苛立ちを滲ませる。舞紘は全く話についていけない。
「その内耳に入ることだろ。舞紘くんだって、なんでこいつが家出したのか気になってるんでしょ?」
──家出?
どういう意味だろう。ただの上京ではなかったのか。
侑斗と目が合う。どこか不安げな眼差しに、また、自分の知らない侑斗を見つけてしまったと思う。
侑斗をこんな姿にさせる瀬名が嫌いだ。
「…気になりません」
気にはなったが、瀬名から聞くことではないと思った。自分の好奇心を優先して、侑斗を傷付けるような真似はしたくない。
「いいです、別に。侑斗が話したくないなら、俺は聞きません」
予想と反した答えだったのだろう。瀬名は鼻白んだ表情を浮かべた。
「舞紘くんって、なんでここに住んでるの?」
「なんでって…」
言い淀んだのは、嘘を蘇らせたくなかったからだ。過去の自分が足を引っ張り、堂々と説明することが出来ない。
そんな舞紘に冷笑を向け、瀬名は侑斗に言い放った。
「舞紘くんはお前を利用してるだけだ」
氷の先端で胸を突かれた気がした。
「住む場所に金もかからない、食事の世話をしてくれる人間もいる。だからここにいるだけだ」
瀬名が立ち上がって玄関へ向かうと、侑斗も無言のまま後を追った。玄関扉が閉まる音が響いた途端、金縛りがとけたように全身から力が抜ける。
「…なんだよ、あいつ」
失礼にもほどがある。いつ出て行くって?そんなの、舞紘と侑斗が決めることで──でも、あの人はここの家主だから、命令されたら出て行かなきゃいけないのかな?
らしくない立ち振る舞いをした自覚はある。侑斗が実果子に冷たいことを責めるふりをしながら、瀬名に気を遣う侑斗に腹を立てた。要は八つ当たりだ。
でも、侑斗だって悪いのだ。ここは舞紘の家でもあるのに、断りなく瀬名を連れ込むのはマナー違反だと思う。事前に連絡をくれたら鉢合わせしない様に寄り道してきたのに。
自分を正当化する言い訳をした傍から、侑斗の傷ついたような眼差しを思い出して、後ろめたさを覚えてしまう。
カレーを食べながらずっと、侑斗の帰りを待っていた。あいつは何を言うだろう。お前は俺を利用しているわけじゃないよな、とか、正面からボールを投げてくる気がした。そしたら、笑って打ち返すのだ。違うよ。俺は…。
──俺は?
確かに最初はそうだった。会社へのアクセスは良いし、家賃もかからない。丁度良いと思って利用した。
侑斗は干渉してこない。一緒にいて楽で、舞紘が泣いていたことを知っていても馬鹿にしない。だから舞紘はなるべく長くここで過ごしたいと思った。実果子に二人で暮らしていることを教えなかったのは、今の静かな暮らしを続けたかったからで──。
いつもの倍時間をかけて食べ終え、皿をシンクに置く。玄関に続く扉を振り返るが、侑斗の気配はない。
何か一つの作業を始める度、終わるまでに帰ってきて欲しいと思った。皿が洗い終わるまで。麦茶を冷蔵庫に仕舞うまで。
けれど、侑斗は帰ってこなかった。置き去りにされたカレー皿にラップをかけ、私室に戻る。
畳の上に寝そべり、携帯の画面を睨みつける。連絡してみようか。でも、まだ瀬名と一緒だったら気まずい。
二人でどこまで行ったのだろう。どんな話をしているのだろう。
本棚には洋書ばかりが並んでいる。この家に来た時から置かれていたから、瀬名の私物なのだろう。すべてが洒落ていて、わけもなく腹正しくなる。気取りやがって、と悪態をついて寝転がった。
瀬名が舞紘と侑斗の同居を快く思っていないのは明らかだ。どうしてだろう?大して会話も交わしていない。昔の侑斗と自分のように、ただ相性が悪いだけなのだろうか。
侑斗は他人の意見に流される性格ではない。瀬名がいくら舞紘の悪口を言ったところで影響を受けるとは思えないが、やはり一抹の不安はよぎる。
──舞紘くんは侑斗を利用してるだけだ。
火に油を注ぐだけと思って、否定しなかった。黙ってやり過ごす姿を、侑斗は肯定と受け止めただろうか。
「…違う」
利用するとか、しないとかじゃない。
侑斗、訊いてよ。お前は俺を利用してるわけじゃないよなって。お前から振ってくれないと、俺から言えない。だって怖い。
お前が誘ってくれたから一緒にいるだけ、というスタンスを壊したくない。芽吹き始めた感情から目を逸らしたい。
侑斗と一緒にいたい。何故だろう。考えてはいけない。でも、侑斗との暮らしを、誰にも邪魔されたくはない。
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