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「職場の先輩と付き合うことにしたの、って言われたんだよね」
真昼の美術館で、実果子の幅広い二重瞼をじっと見つめて言う。
「二個上で、営業部のエースなの。実家は調布で、お父さんは新聞社で役員勤めてるんだぁ、ってそれ、俺に話す必要ある?浮気なんて疑ったこともなかったし、もう、寝耳に水って感じ。薄情だよな、同棲して三年だぜ?」
「嘘ついてる」
一刀両断である。
実果子の睨みは強烈だ。長年のクラシックバレエで鍛えた表現力と本人は主張するが、ただ単に気が強いだけだと思う。どちらにせよ、舞紘には全く効き目がない。
「嘘ってどこが。営業部のエースってとこ?」
「絵梨ちゃんの話じゃないわよ。嘘ついてるのはあんた」
「俺?」
きょとりと目を瞬かせると、フンと鼻で笑われた。こういった表情が様になるのは、実果子が目鼻立ちのはっきりした美人だからだ。
「人の心を読んで先回りするのが趣味のあんたが、彼女の浮気に気付かないわけないじゃない。あえて放置してたくせに、なに被害者ぶってんのよ」
なかなかに的を得た意見だった。だが、ここで頷いてはいけない。
「恋人の浮気を放置して、俺になんのメリットがあるんだよ」
「自分から別れ話するのが面倒だったとか」
半分正解。
「実業団引退してナメクジになってたあんたを支えてくれた彼女に、よくそんなこと出来るわね」
「なんで俺が責められるんだよ。住む家をなくしたんだぞ、こっちは」
実果子の心は「厳しさ」と「優しさ」、「平等」が複雑に絡み合って出来ている。「優しさ」の賽の目が出るよう、舞紘は真摯な眼差しで実果子を見つめた。
「お願いします実果子様。お前が出張いってる間、部屋を貸してください!」
「絶対嫌」
実果子はベンチから立ち上がると、ボブカットの髪の裾をさっと払った。
「中庭見学してくる。あんたは?」
薄情者、という言葉は胸に押しとどめた。本当にNGなら、実果子は今ここにいないはずだ。まだ希望の糸は断たれていない。
「俺はいーや。ここらへんで待ってる」
舞紘が美術に興味がないことを知っているからか、それ以上誘うこともなくさっさと背を向けた。こういう時、昔馴染みの間柄は楽だと思う。
表参道駅から歩いて数分、大きな寺と隣接して建つ美術館は随分と賑わっていた。舞紘にとっては退屈極まりない場所だが、吹き抜けのロビーには多種多様な話し声がさざ波のように響き合っている。
館内の見学は済んだし、もう一度見たいものもない。時間つぶしに、ロビーに並んだ仏像の前を歩きながら高さを目測していく。
百五十センチ、百六十五センチ、百四十センチ。
──飛べる、飛べる…飛んでもつまらない。
硝子窓にうつる自分の姿が目に入る。百七十五センチの身長に、雪国特有の白い肌と、陽光に当たると栗色に見える髪。少しやせたように思えるのは、二の腕の筋肉が落ちたからだろう。
長い手足も華奢な体躯も、高跳びには打ってつけと気に入っていたが、どうにもひ弱な印象は拭えない。また鍛えてみようかなと考えた矢先、戒めるように足首が疼いた。
ざわめく胸の内を鎮めようと、さり気なくアキレス腱を伸ばしてみる。
「…異常なし」
わざわざ口に出したのは、自分を安心させるためだ。
不審気な視線を送る女性達に気付き、愛想の良い笑みを残して立ち去った。
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