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<7>嘘からでた実
すっかり銭湯通いも板についた。洗いざらしの髪を初夏の夜風にさらしながら、梅香坂を登る。
侑斗は大学とバイト先の事務所を往復する日々で、ここ数日は顔を合わせる機会もめっきり減っていた。事務所が公共施設のコンペに参加することになり、模型作製を任されてらしい。家には着替えを取りに来る程度で、食卓を共に囲んだのは一週間以上前だ。そろそろ侑斗の手料理が恋しい舞紘である。
あの日以来、瀬名は姿を見せなくなった。
先日浮かんだばかばかしい妄想は、勿論口にしていない。それでもふと、今日も瀬名と侑斗は一緒にいるのだろうかと考えてしまう事がある。
瀬名の現実離れした容姿のせいだろうか。それとも、侑斗が彼に見せる確かな信頼のせい?
あの人と仲良くしないで、なんて、子供じみた嫉妬心を抱く自分が恥ずかしい。気を紛らわせようとコンビニに足を向けた矢先、携帯が鳴った。実果子からだ。
「もしもーし」
『舞紘、今大丈夫?』
「うん」
実果子の声に交じり、賑やかな笑い声が聞こえる。高椿くーん、という甘ったるい声も。
「どっかで飲んでるの?」
『うん、村辺さんと、あともう何人かと。あんたも今から来ない?』
実果子の声は随分と明るかった。舞紘は「悪いけど」と薄雲のかかる月を見上げる。
「もう風呂も済ませたし」
『別に良いじゃない。居候先、神楽坂でしょ』
「お前、村辺さんのこと散々悪く言ってたじゃん」
実果子はぐっと声を控えて言う。
『あの後上手くやってるの。ね、進の店だし、いいでしょ。タクシーだとすぐよ』
実果子の恋人は曙橋でハンガリー料理店を営んでいる。煮込み料理が絶品で、舞紘も度々顔を出していた。
だが、気の合わない相手がいる飲み会に参加するほど、実果子はフットワークが軽い人間ではない。
「実果子」
舞紘は数秒迷ってから、「あんまり怒らないで聞けよ」と前置きをして話し始めた。
「…前に、俺に彼女ができたんじゃないかって言ってたの、村辺さんだろ」
『なんで知ってるの?』
「考えれば分かるよ。それで、お前は高椿に彼女はいないって村辺さんに伝えた。その時から村辺さんの態度が良い方に変わったんじゃないのか」
『…そうだけど』
素直に話を聞く姿勢に躊躇いが生じた。だが、毎回同じパターンで利用される実果子と、寄せられる好意に自惚れてきた自分の組み合わせが嫌になってしまったのだ。
「村辺さんが優しくなったのは、俺と付き合うためにお前を利用したくなったからだよ。そんな相手の思惑通りに動くなよ」
ヒールの音が携帯越しに聞こえる。席から離れているのだろう。
後ろが静かになるのを待っていると、実果子は「そうかもしれないけど」と切り出す。
『そんな目くじらたてること?』
「俺は村辺さんと付き合わないし、気を持たせることも言わない。その内、またお前への態度変えてくるぞ。期待通りの行動なんてせずに、アホのふりして近場の友達でも呼んでおけ」
『侑斗にかけたけど出なかったんだもん』
「お前なあ…」
全女子が喜ぶイケメンを差し出してどうする。ここでいう友達とは同性を指すのだ。
でも、その実直さが実果子の良いところでもある。呆れ半分、感心半分で笑い声を漏らすと、実果子が「なによ」と尖った声を出す。
「侑斗、今忙しいんだよ。バイト先がごたついてるみたいで」
『ふうん。最近も会ってるの?』
「うん、まあ。お前らは?」
『あっちから謝んない限り無理』
そう言いながら、侑斗に連絡をしたのは仲直りの糸口を探したかったからだろう。
コンビニに入るのは諦め、坂道を上がる。春、侑斗と過ごした公園の入り口に置かれた自販機に小銭を投入した。
『らしくない事言うのって、あいつの影響?』
ボタンを押す手が止まった。
「らしくないってなんだよ」
『利用されてるとか、わざわざあたしに言ったことなかったじゃない。いっつも女子からチヤホヤされて喜んでたくせに』
ブランコに腰掛け、景色を眺める。
ここで泣いている時に侑斗が現れたのだ。銭湯に行く、という舞紘の嘘を見抜いていたのに、風呂道具一式を持って追いかけて来た。
侑斗の影響──確かに、そうなのだろう。真っ直ぐな眼差しを浴び続ける内、心のよれた部分がピンと伸びた気がする。
『こういうのは持ちつ持たれつでしょ。あたしだって、彼氏の店だってこと黙って連れてきてるもん。利益率の良いメニューばっかり頼んでるし』
「お前こそらしくねぇじゃん。女子に俺のこととか侑斗のこと聞かれるの嫌がってたし、彼氏の店って伏せて誰かを呼んだりしなかっただろ」
『…別に。いちいちムキになっても仕方ないかなって思っただけ。あんたの方が余程よ』
実果子はまだ席に戻るつもりはないらしい。舞紘はブランコを微かに揺らしながら、缶を煽って喉を潤した。
「俺は…」
侑斗の話を実果子に伝えるのは憚られた。今更一緒に暮らしてるとは言いだしづらい。
代わりに浮かんだ瀬名の面差しに、口の中が一気に苦くなる。
「まあ、最近ちょっと癖のある人にあって、嫌な思いしたからさ。考えなおした部分があるっていうか」
『どんな人?』
「居候先の家主。時々家に来るんだけど、俺、嫌われてるっぽくて。早く出ていけとか、同居人を利用してるとか言われる」
『なにそれ。失礼すぎない?』
てっきり「言われて当然」と返してくると思いきや、舞紘の肩を持ちはじめた。
『同居人があんたを呼んだんでしょ。じゃあ口出しされる理由はないわよ。もう家に入れない様に鍵でも変えておけば?』
「いや、持ち主はその人なわけで…まあ…そういう部分も確かにあるなって反省した」
それからも実果子は会ったこともない家主の悪口を言い続け、舞紘は白旗を上げた。
「実果子。お前、知りもしない奴に想像力を働かせすぎ。やっぱりその飲みの席つまんないんだろ」
『あんたに関係ないでしょ』
「お前からかけてきたんだろ。もう切るから、お前も適当な嘘ついて場抜けろよ。明日話聞いてやるから」
『もう良いわよ、薄情者』
最終的に舞紘が悪いといわんばかりの態度を向けられたが、これが実果子らしさだ。苦笑いと共に電話を切り、うんと伸びをした。
──知りもしない奴に、想像力を働かせすぎ、か。
侑斗が取り組んでいるプロジェクトに、瀬名が関わっていることはなんとなく察している。夜遅くに帰って来た侑斗が電話している声が漏れ聞こえてきて、瀬名さんという単語が何度か出てきていた。
瀬名との関係を真正面から尋ねたら、侑斗はどう答えるだろうか。笑い飛ばしてくれると信じながら、もし返事に一瞬でも間が空いたらと想像する。…無理だ。
男同士の恋愛がどうこうというわけではない。そうではなくて──。
悩んでいても仕方ない。そもそも、舞紘が瀬名をあまりに知らなすぎるのだ。
携帯を取り出し、瀬名玲、プロダクトデザイナー、と検索する。なめらかな曲線を描く木製の椅子が表示され、瀬名の華やかな容姿とは真逆の素朴なフォルムに意外性を感じた。
検索サイトの上位にインタビュー記事が上がっていた。そういえば、前回会った時、雑誌の取材の帰りだと言っていたことを思い出す。実際会っても美しい男だが、写真に収められた姿は芸能人並だ。
受賞した作品への思い、自身のインテリアブランドへの考え、プロダクトデザイナーを志したきっかけなど、瀬名の経歴にフォーカスがあてられた内容だった。生まれも育ちも東京で、侑斗が通っている大学の卒業生らしい。つまり、侑斗にとっては大学の先輩にもあたる人なのだ。
突然、見慣れた地名が出てきて驚いた。瀬名は七年前に舞紘達の地元にアトリエを持つ計画を立てていて、春から夏にかけて滞在していたと書かれている。色々あって東京に腰を据えたとまとめられていた。
七年前──つまり、舞紘が高校三年の頃だ。
スクロールしていた指が止まったのは、その後に続く一文だった。
プライベートで刺激を受けることはありますか。
「パートナーも同じ業界にいます。年下で、考え方の違う部分もあるのですが、色々と刺激を貰っています」
数年前に公表された同性のパートナーですね。
「はい。別に、性別を明らかにするつもりはありませんでしたが、誘いを断る口実も尽きてしまって(苦笑)」
それ以上読み進めることは出来なかった。
鼓動がうるさい。こめかみに響く程どくどくと響いている。
建築業界にいる、年下の、同性のパートナー。
名前は書かれていない。舞紘の知らない誰かの話かもしれない。それなのに、舞紘の頭の中には、瀬名の我儘を聞く侑斗や、侑斗に化粧を施す瀬名の姿が次々と浮かんでくる。
──ああいう人とどこで知り合うわけ?
──プロダクトデザインの仕事してるんだ。
瀬名との出会いを尋ねた時、侑斗は答えなかった。
何故だろう。話してくれても良かったじゃないか。七年前だよ、と。俺たちの地元に住んでたんだ…。
違う。言いたくなかったんだ。適当な嘘で言い逃れる代わりに、侑斗は沈黙を選んだ。
瀬名とのことで、嘘をつかなければいけない理由がある。
瀬名と出会って半年後、侑斗は卒業式にも出ず、実果子や家族と一切の関係を断って東京へ向かった。
──お前こそ、何か思い出すことはないのか?俺のことで。
──高三の夏休み前くらいに、色々言われてただろ。
点と点が繋がり線となる。これ以上ないほど明確な答えが色鮮やかに浮かび上がる。そんなはずない、と間違いないが交互に行き来する。夜の暗がりが心を追い込む。
通話履歴を呼び出して鳴らすと、相手はすぐ電話に出た。
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