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<8>譬えに嘘なし坊主に毛なし
目が覚めると水音が聞こえた。
時刻は午前八時半。既視感だなぁ、と布団から体を起こして着替え、洗面所で顔を洗う。
縁側に続く硝子戸は開け放たれ、強い日差しの中、風鈴が涼やかな音色を響かせていた。
白いうなじをおしげもなくさらし、瀬名はエゴの木を見上げていた。花は散り、今は楕円形の実がゆらゆらと揺れている。
「鳥がすごい来るんですよ」
舞紘の声に驚くこともなく、するりと振り向く。
「まだ住んでたんだ」
「へへ、すみません」
軽い調子の舞紘に、瀬名はため息を零す。
相性の悪さを再認識していると、縁側に見慣れない鉢植えが置かれていることに気付いた。
「なんですか、これ」
青々と茂った葉に、夕映え色の風船がいくつもぶら下がっている。
「今日からほうずき市でしょ」
瀬名は土に落ちたエゴの実を拾って言う。
「夕方くらいに玄関に出しておいてね」
「はあ…」
引っ越したばかりの頃、七月に町内でお祭りがあるのだと侑斗が話していた。今日だったのか、と愛らしいほうずきの実を見つめる。
その侑斗からは、コンペ後は打ち上げがあるから遅くなるとメッセージが届いていた。ろくに顔を合わせないまま、一週間が過ぎている。
「瀬名さんも今日のコンペ、参加するんですか」
「一応ねー」
「侑斗に今のバイト先紹介したの、瀬名さんなんですよね。昔は瀬名さんもその…橘事務所でしたっけ?そこで働いてたんですか?」
「ううん、古い知り合いが勤めてるだけ。色々あって事務所内がゴタついてた時期に、侑斗が働き口探してたから紹介したんだ。寝泊まりできる部屋もあるし、宿無しにはちょうど良いだろうって」
「宿なし」
「卒業式の日に、そのまま東京出て来たんだよ、あいつ。今そっち向かってます、泊めてくださいって。若さって怖いよな」
瀬名は縁側に腰掛けると、胸ポケットから長方形の箱を取り出した。今時珍しい紙巻き煙草を唇に咥え、ライターで火をつける。
「灰皿ある?」
「ありませんよ。…てか、吸うんですね」
「ほおずき市の日だけね」
仕方なく、冷蔵庫からサイダーの缶を取り出し、中身をグラスに注ぐ。空になった缶に水道水を注いで渡すと、「適当だなあ」と嫌そうに受け取った。礼は言わないのか、と胸の内で突っ込む。
「てかさ、舞紘くん」
「はい」
「地元戻れば?」
「…急ですね」
悪意のない口調な分、反応に困る。
「親御さんだって地元で待ってるでしょ」
「うーん」
朝に不似合いな紫煙を見つめて思案した。
さて、どうしよう。曖昧に微笑んでおけば、瀬名の思い込みを肯定できる。
今までの舞紘ならそうしていただろう。自分の弱みを見せるのは、有利に働くか状況を見極めてから。嘘でも、誤解でも、自分が良く見える方を常に選んできた。
でも、そんなの意味がないことだ。
「家族との仲が最悪なんで、地元には戻らないです」
「ふーん」
瀬名は缶の端に煙草を置き、足を組みなおす。
「見かけによらないね」
「見かけで分かることなんてあります?」
「あるよ。舞紘くん、愛されて生きてきましたって顔、してる」
まるで根拠のない決めつけに、つい吹き出してしまう。
「まあ、モテてはいましたけど」
「女にチヤホヤされるのなんて、檻越しに眺められてる動物園の猿と同じでしょ。愛されてるとはいえない」
「…瀬名さんは、女にチヤホヤされるの、嬉しいですか」
舞紘なりの賭けだった。瀬名は全く動じず、美しい横顔のまま煙草を吸った。
「全然」
細く煙を吐き、にこりと笑う。
「チヤホヤされるなら男が良い」
「…そうですか」
小声で返すと、笑みを皮肉めいたものに変える。だが、腹は立たなかった。舞紘の不躾な問いを馬鹿にする仕草ではなく、自分を守るための鎧に見えたからだ。
──この人も、傷ついてきたのかな。
侑斗があの町を去ったように、瀬名の心にも何かしらの痛みが残っているのかもしれない。
「侑斗に聞いたの?俺がゲイだって」
「いえ。…実果子です」
「ふうん。ねえ、麦茶飲みたい」
御所望通り用意すると、今度は「ありがとう」と礼を言われた。
「この前は気にならないって言ってたのに、どういう心境の変化?」
答えにつまってしまった。
「…些細な疑問が積み重なった結果、ですかね」
「へー」
麦茶を半分ほど煽り、陽の光に透かす。
「でも、全部が分かったわけじゃないんです。実果子が妙なこと言ってて」
「俺はなにも答えないよ」
いきなりシャットアウトされたが、ここで引いては元も子もない。勢いに飲まれないうちに続けた。
「俺、侑斗が瀬名さんに惚れてるんだって思ってました。二人は付き合ってるって…。でも、実果子は侑斗が、誰かのために瀬名さんを利用したって言うんです」
改めて口にすると、衝撃が大きい。
あの侑斗が誰かを利用するなんて信じられない。そうまでして守りたかった「誰か」がいるなら、その相手に、舞紘は一生勝てない気がする。
「あのさー。それ聞いて、どうするわけ」
「どうって…」
「舞紘くんに関係ある?俺と侑斗のことって」
「…一緒に住んでますから」
向けられた視線の迫力に負けそうになったが、心を奮い立たせた。
「この前は俺に教えてくれようとしたじゃないですか」
「教えたら、君、この家出て行きたくなると思うよ」
煙草を唇に挟んだまま、不明瞭な発言で言う。
「良いの?侑斗のこと、もう少し利用してたら?」
「利用なんてしてません」
「じゃあなんでこの家にいるわけ」
黙り込む舞紘に、瀬名は「ほらね」と笑う。
「…確かに、最初は利用してました。でも、今は違います」
宣戦布告のつもりで顔を上げた。
「…侑斗が、好きだからここにいます」
煙草の灰が落ちかけ、空き缶を差し出す。瀬名は無言のまま、缶の縁で灰を落とした。
「…好きって、どういう意味で?」
「惚れてます。ヤリたいです、あいつと」
口にすればするほど、もう後には戻れないと実感した。
そうだ。俺は侑斗に惚れてる。だから、瀬名さんと侑斗の関係が気になってる。
「…あっそう」
なんだか面倒な話になってきたな、と呟いて、瀬名は豪快に頭をかいた。
「まあ、今の話は一旦聞かなかったことにするけど。で、なんだっけ。侑斗が俺を利用したって?」
「はい」
「その通りだよ」
「…どういう事なんですか?」
舌が強張りそうだ。
「雪が降る海沿いの町に、アトリエを持つのが夢でさ。何カ所か候補地があったから、順番に暮らしてみて、一番しっくりきた場所の土地を買おうって決めてたんだ」
紺碧の青空に、ドーナッツ型の煙が飛んでいく。
「貸別荘のオーナーに、隣の家の男子高生の家庭教師をしてくれないかって頼まれたんだ。面倒くさいなって思ったけど、その分賃料も安くしてくれるって言うし、オッケーした」
「それが、侑斗との出会いですか」
「そ。ちなみに、貸別荘のオーナーは実果子ちゃんの両親」
初耳だった。驚く舞紘に気を良くしたのか、瀬名はにんまりと笑う。
「当時俺はフリーだったんだけど、別れた男があの町まで追いかけてきてさ。言い争ってる時に侑斗と鉢合わせちゃったんだよね」
畏まるのも面倒と、侑斗にアトリエの鍵を渡し、自由に出入りするよう伝えてあったのだという。あれはミスだったわ、と瀬名はため息を零した。
「俺は自分の性癖を隠してはいなかったし、侑斗もなんとなく気付いたんだろうな。元カレが退散した後、俺に、男と付き合ってるのかって聞いてきた。そうだけど、周りにバラすのかって脅し交じりに言ったら、あいつ、めっちゃ強気な目で睨みつけてくるわけ」
自分も男しか好きになれない。どう生きていけばいいか分からない──侑斗は瀬名に、そう打ち明けたと言う。
「そんでまあ、色々教えた」
「…色々って」
「セックスのやり方とか」
あまりに軽く言われると、反応に困る。
「別にマウントとろうとしてるわけじゃないからな。あいつが俺に惚れてるのか聞くから説明してるだけ」
「惚れてたんじゃないんですか、セックスしたんだから」
やけっぱちに言い捨てると、瀬名は呆れたように片眉を上げる。
「おまえなあ、思春期真っただ中の高校生だぞ。好きじゃなくてもヤラせてくれる相手とはするだろ」
悔し紛れに噛みつく舞紘とは違い、瀬名は冷静だった。
「じゃあ、なんで好きでもない相手と人前でキスなんて…」
瀬名は心底面倒くさそうにため息を吐いた。
「だから、それで利用されたって話になるんだよ」
「…あ」
侑斗は好きな人を守るために、あえて、瀬名とキスをした。──いや、だからキスをしたら守れるって一体何なんだ?
「あー、色々思い出しちゃったじゃん。最悪」
「…侑斗が好きな奴って…」
「誰だっていいでしょ。あ、実果子ちゃんじゃないからな。あの子は俺と侑斗がキスしたって噂を聞いて、アトリエに殴り込みに来ただけ。俺もそこで事の顛末を知ったんだよ」
実果子の奴、と顔を顰める。成人男性の住処に乗り込むなんて、向こう見ずにもほどがある。
「おかしいとは思ってたけどね。ゲイだってこと隠して生きてきた人間が、いきなり外でキスかましてくるなんてさ。でも、まあ思春期だしそういうもんかなと思ってたら、あっという間に大騒ぎ」
舞紘は覚悟を固めてから尋ねた。
「瀬名さんはどう思ってるんですか。侑斗が、瀬名さんのこと利用したと思ってます?」
「お互いに恋愛感情がなかったことは確か。あとは侑斗本人に聞いて」
じゃあ俺はこれで、と瀬名は腰を上げた。
「え!?ちょっと」
瀬名は縁側から庭に降りると、サンダルをつっかけて歩き出す。
「話の途中じゃないですか!」
「話せることはこれで全部。俺だって忙しいんだよ。ここに寄ったのは、それ届けに来ただけだから」
言いながら、ほおずきの鉢を指さす。
「どうせ、侑斗も夜には帰ってくるんだし。舞紘くんからの質問はあいつに全部送っておいたから」
「は!?」
瀬名は携帯を振りながら裏口を出て行く。
「ちょっと!それはないでしょ!」
「うるさい。もううんざりなんだよ、あいつのごたごたに巻き込まれるの」
じゃあね、と掌を振って裏口から出て行く。
玄関を回って後を追おうとしたが、すでにタクシーが走り去った後だった。
慌てて私室に駆け込み、荷物をかき集める。
出て行かなきゃ。秘密を探った上、恋愛感情まで暴露されては、侑斗に合わせる顔がない。
ボストンバッグに洋服を詰めながら、必死に頭を回転させる。侑斗への言い訳を考えなければ。
家が見つかった。転勤が決まった…駄目だ、どの言い訳も実果子に確認されたら一発で嘘だとバレる。
──嘘。
そうだ。まだなにも、侑斗に打ち明けられていない。実業団を引退したこと。彼女と別れたこと。
瀬名が落とした爆弾に比べれば、些細な事にも感じる。だが、黙って去れば良いとはどうしても思えなかった。
こんなタイミングで全て明らかにするなら、もっと早くに言えばよかった。嘘をついた自分が悪いのだが、誰かに当たり散らしたいような、情けない気持ちが沸き上がって来る。
「どーすりゃいいんだよー…」
焦るな、落ち着け。まずは、侑斗が帰って来た時のシミュレーションからだ。
侑斗の性格上、瀬名の話を真に受けるとは考えにくい。だが、知らんぷりはしないだろう。それどころか、真っ向から確認をする姿がありありと浮かぶ。
──舞紘。お前、俺のこと好きなのか?
言いそう、すっごく言いそう。
どう対処するのが正解なのか。言葉の行き違いだと言い逃れれば、どうにかなるだろうか。
「…また、嘘つくのかな」
零れた声に、慌てて首を横に振った。本当のことを明かすどころか、また嘘の上塗りをしようだなんて、俺はどこまで卑怯者なんだ。
いっそのこと、直球勝負で挑んでみようか。今までついていた嘘を明かして、お前が好きなんだと告げる。その上で、誰かを利用してまで守りたかった、惚れてた奴が誰なのか訊いてみる。
答えを聞いた後どうするかは決まっていた──もう、傍にはいられない。
侑斗の傍にいたい。好きだから、一緒にはいられない。堂々巡りだ。
蝉がけたたましく鳴き始めた。治ったはずの足首が痛む気がして、寝転んだまま膝を抱える。
恋心を隠すことは、嘘をつくことと同じだろうか。
誰といても動かなかった心の一部が、収縮を繰り返す。あれほど侑斗に会いたかったのに、今は会うのが怖かった。
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