<1>嘘はやめられない

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 ミュージアムショップに入ってすぐの平台に、本が積まれていた。  こういった場所で携帯をいじるのは不格好だ。暇つぶしに一冊手に取り、ぱらぱらとめくっていく。  近代日本の画家や建築家と、その作品について解説されている本のようだ。 ──こういう職業の人って、いつが辞め時なんだろ。  視力が低下した時だろうか。それとも、指先がおぼつかなくなった時?  いずれにせよ、自分で決められるのではないかと思った。注文がないとか、作品が売れないといった金銭的な事情で別の道を模索することはあるだろうが、自分の意志で決定できそうだ。  それに、絵や建築は趣味で続けることが出来る。絵は紙とペンがあれば良いし、建築の模型もボンドとプラスチック板で作れるだろう。  走高跳はそうもいかない。マットレス、バーと支柱、十分な面積のトラック。なにより頑丈な体がなければ飛ぶことすら出来ないのだ。  駄目だと思うのに、思考が引きずられてしまう。  どうして俺が、走高跳をやめなきゃいけなかったんだろう。いつ、どの選択を間違えちゃったんだろう。  答えのない問いが胸の中で渦を巻く。他のことを考えなきゃ、と分かってるのに、渦は勢いを増していく。  なんで、どうして、なんで──。 「前、良いですか」  良く通る声に、渦が消えた。  いつの間にか、真後ろに黒髪の男性が立っていた。  随分と背が高い。多分、百八十センチはあるだろう。 「…あの」 「あ、すみません、どうぞ」  慌てて本を閉じ、別の棚の前に移動する。ポストカードを眺めながら男の姿を伺ったのは、妙な違和感を覚えたからだ。  無造作に分けられた前髪から覗く一重瞼。鼻筋が彫刻の様に整っている。お世辞にも親しみやすいとはいえないが、特別な容姿であることは間違いない。 ──モデルかな?SNSで見たことがあるのかも。  なんとなく気になり、ベンチに移動して思いついた名前を検索していく。 だが、表示される画像はどれも別人だった。魚の小骨が引っかかったような気分を抱えながら青年の正体を考えていると、二人組の女性がこちらを見ていることに気付いた。その内の一人は、さっき不審そうに舞紘を見ていた女性だ。  二人は携帯と舞紘の顔を交互に見比べ、ひそひそと話し合っている。舞紘は視線に気付かないふりを装いながら、さり気なく身だしなみを整えた。 「…あの」  数分後、二人は舞紘に声をかけた。 「高椿(たかつばき)舞紘選手ですよね。星涼食品で、走高跳やってた」 「はい、そうですけど」  驚いた素振りで答えると、二人は一気に頬を染め上げた。 「大学生の頃から応援してました!」 「私も、実業団のインスタフォローしてたんです!」  甲高い声はホール中に響き渡り、先程の男がもの言いたげな目線を向けて来る。  品の良いルックスが評判を呼び、成績の割に知名度が高い選手だった自覚はある。引退してからは声をかけられる機会も減ったが、やはり芸能人の様な扱いを受けるのは気分が良い。 「大阪の日本選手権、現地で応援してたんです。二メートル二十五センチの大ジャンプ、本当に感動しました!」  女性の熱弁に、口元の笑みが崩れそうになった。 「見に来てくれたんだ。ありがとう」 「足はもう大丈夫なんですか」 「うん、普通に歩く分には全然」 「引退知った時、本当に悔しかったんです。オリンピックまで、あとちょっとだったのに」  熱のこもった口調がはたりと止んだ。舞紘の真後ろをちらちら見ながら、気まずげに会釈をして後退する。 「じゃ、じゃあ…失礼します!」  残念な気持ちで見送り、後ろを振り返る。思った通り、実果子が睨みつけていた。 「中庭、もう見終わったの?」  飄々とした問いには答えず、実果子は自分の言いたいことだけを話した。 「大阪ねー。ってことは、二年前よね。あんた、エントリーすらしてなかったんじゃなかったっけ?」  聞こえていたのか。軽く肩を竦めて苦笑いを浮かべる。 「あのテンションで話してる人に、それは俺じゃないんですよー、なんて言ったら場の空気が冷めるだけだろ」 「あんたは場の空気を温めるために嘘をつくわけ?」  嘘は円滑なコミュニケーションに必要だ──という持論は口にしなかった。これ以上言葉を返せば、いよいよ機嫌を損ねることになる。  ミュージアムショップへ向かう華奢な後ろ姿に文句を垂れ流していると、実果子が件のモデル風男とぶつかってしまった。生真面目に謝る実果子に、男は何故か目を見張る。  なんだイケメン、実果子がタイプか?そいつは美人だけど、見てくれ通り、いやそれ以上に性格がきついぞ。料理人の彼氏持ちだし。  ヤジを飛ばしながら観察していると、二人は携帯を取り出して連絡先を交換し始めた。 ──おいおい、マジかよ。  さらには一緒に買い物まで始め、実果子が選んだ何某かを男がレジへと運んでいく。支払いを済ませると、男は一方の袋を実果子に渡してそのまま出口へ、実果子は頬を紅潮させながら舞紘の方へと走って来た。 「舞紘、舞紘!」 「実果子、俺は何も見てないぞ。(すすむ)さんには黙っててやる」 「何言ってんのよ。ねえ、あたし今、誰に会ったと思う?」 「芸能人かなんか?」  実果子は美術館のロゴが印刷された袋を抱きしめて言う。 「侑斗(ゆうと)よ、酒々井侑斗(しすいゆうと)!あんただって、高一の時同じクラスだったじゃない」  その名前を聞いた瞬間、さっき傍にいた男と、不機嫌そうな横顔がぱちりとハマる。  なるほど、通りで見覚えがあったはずだ。 「お前たち、幼馴染じゃん。そんなテンションあがる話?」  舞紘と実果子はバレエという習い事あっての昔馴染だが、侑斗と実果子は、実家が隣同士という生粋の幼馴染だ。 「だって、ずっと会ってなかったもん」 「え、なんで?喧嘩でもしたの?」 「喧嘩っていうわけじゃないけど…」  再び庭へ出て行く人が増える中、実果子は出口へと向かう。舞紘も荷物札とスーツケースを引き換え、後に続いた。  春らしい陽光が降り注ぐ中、頬をすぎる風はひんやりとしている。 実業団を辞めてから、季節の感じ方が大きく変わった。試合のない冬季、試合が行われる試合期ではなく、春夏秋冬がゆっくり巡っていくのを肌身で感じている。  でも、こんな生活を望んだわけじゃなかった。 「あんた、侑斗とのことで何か覚えてる?」 「特に。あんま絡みなかったし」  工務店を営む父親の手伝をしていたこと、運動神経が抜群なのに美術部だったことくらいしか覚えていない。 「それよりさ。侑斗、俺の話聞いてたかな」  実果子がちらりと視線を向けてくる。 「話って?」 「現役引退したとか」 「聞こえてたんじゃない?あんた達の声、馬鹿デカかったもん」 「マジかよ」 「何か問題でもあるの?」 「母さんの耳に入れたくない」  感情を込めずに言ったつもりだったが、実果子は歩調を緩めて隣に並んだ。 「先生、あんたが実業団やめたことなんてとっくに知ってるじゃない。もう一年以上前の話なんだし」  舞紘の母から直接バレエの指導を受けていた名残で、実果子は今も彼女のことを「先生」と呼ぶ。 「あの人のプライドの高さ、お前だってよく知ってるだろ。侑斗の母親とどこかで会ってこの話をされたら、その場では涼しい顔でやり過ごしても、教室のスタッフさんに当たり散らすに決まってる」 「侑斗にお母さんはいないわ。小学校の頃に亡くなってるから」 「………そうなんだ」 「心配しなくても、侑斗が自分の家族にあんたの話をするなんてことはないから大丈夫」  物事を多面的に見ない実果子の言葉を、やすやすと信用することはできない。だが、侑斗に関しては舞紘の方がよほど知らない立場だ。一度はその意見を受け入れることにした。 「実果子、マジでお願い」 目的地のバス停に着くなり、改めて頭を下げた。 「なによ」 「部屋、貸してください。出張の間に絶対新しい家見つけて出て行くから」  ──イケる。  自信があった。さっきまで彼氏にデートをドタキャンされ不機嫌だった実果子は、一転、イケメンな幼馴染との再会で上機嫌だ。頼み込むなら今しかない。 「元カノと連絡とってないの?」 「全然」 「少しはヨリ戻そうとか、努力しないわけ?」  予想外の追及に戸惑いながら、歯切れ悪く答える。 「いや、努力もなにも、向こうには新しい彼氏いるし」 「やっぱり、あんた何かしたんでしょ」 「何かってなんだよ。あんま勘繰るなって」  実果子の見立ては当たっていた。  別れの段取りを始めたのは三か月前。絵梨がよく話題にだす「先輩」と距離が近付くよう仕向け、別れ話を切り出された時はほっとした。舞紘が次の住処を見つけるより先に付き合いだすのは想定外だったが、罪悪感もあって、ごねずに家を出た。  穏便な別れを計画したのは舞紘なりの誠意だし、絵梨の幸せを願う気持ちに嘘はない。だが、正直に話したら、実果子は絶対に家の鍵を貸さないだろう。 一旦話題を逸らそうと彼氏の近況を聞こうとしたが、実果子はなぜか青白い顔でミュージアムショップの袋を覗き込んでいた。 「どしたの」 「……これ」  恐る恐る、袋から革の財布を差し出してくる。 「おう、サンキュ」 「あんたのじゃないわよ!」 「くれるのかと思った」  舞紘から財布を奪い返すと、躊躇なくカードを確認する。保険証の名前を見て「やっぱり」と肩を落とした。 「侑斗のだ」 「え?」 「同じ袋だから入れ違いになっちゃったんだ。…どうしよう」  慌ただしく携帯を耳にあてるが、侑斗は出なかったらしい。  ため息と共に通話を切る実果子を見て、舞紘はぴんと手を挙げた。 「俺が届ける」 「あんたが?」  実果子は意外そうに目を丸くした。 「一週間も財布なしで暮らせないじゃん」 「…まあ、それはそうだけど」  実果子は必要以上に躊躇っているように見えた。  なんだか大袈裟な反応だ。遠くから向かってくるバスを視界に入れながら、舞紘は立て続けに言葉を重ねる。 「社員証なくすと始末書書かされるし。銀行で金も下せないし、運転免許証も──」 「分かった、分かったわよ!」  あきらめがついたようにビニール袋を押し付けて来たのは、バスがすぐそこまで迫っている時だった。 「連絡先、送っておいたから」  送信画面を見せられたと同時に、舞紘の携帯が振動する。 「実果子」  笑みを浮かべながら手を差し出すと、悔し気にキーケースを投げつけられた。 「ベッドで寝たら殺すわよ。出張から帰って来ても置いて貰えるなんて期待しないで」 「勿論」 「あんたもたまには、見返りのない人助けしてみなさいよね」  タラップに乗った実果子が言い終えると同時に、ぷあん、と間抜けな音を立てて扉が閉まる。  バスは去り、アスファルトには頼りない桜の花びらがふらふらと舞っていた。  実果子の部屋を借りることと、侑斗に財布を返すこと。釣り合っているのか微妙な取引だが、とりあえず急場は凌げた。しかし… ──侑斗とサシで会う、か。  自分で言いだしたことだが、気が重い。 ビニール袋から財布を取り出して眺める。ひやりと冷たく無愛想な革は、舞紘の温度と全く馴染む気配はない。  ブランドの財布を持たないところが、侑斗らしいと思った。
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