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<2>嘘も方便
飯田橋のファミレスを指定してきたのは侑斗だった。
ただでさえ気の進まない外出なのに、案内されたのは路地に面した硝子張りの席だった。これじゃ三百六十度丸見えだ。
一人行動は苦手だ。周りから友達がいないと思われそうで不安だし、時間の潰し方も分からない。かといって「変えて欲しい」と言える度胸もなく、気を散らすために店内を観察することにした。
課題に取り組む大学生、キーボードを叩く社会人。朗らかにお茶をするおばさま方と、その声に負けないくらい大盛り上がりの高校生たち。
あの後、携帯に保存されている高校時代の写真を総ざらいしたが、侑斗はどの写真にも写っていなかった。
修学旅行、卒業式──いくらだって機会はあったはずなのに、後ろ姿どころか、見切れもしていなかった。
声をかけたものの断られたのか、舞紘が声をかける隙もないほど女子に囲まれていたのか。
(まあ、断られたんだろうな)
情けないが、心当たりはあった。
侑斗と初めて会ったのは、高校の入学式だ。実果子に「幼馴染なの」と紹介され、挨拶を交わした。
第一印象は、背が高くて、イケメン。そして、高校生らしからぬ落ち着き払った態度と、鋭い眼差し。
話した時間は数十秒に満たない。それだけでも、居心地の悪さを感じた。
その頃の舞紘はすでに、にこりと笑いかければ、大抵の人間は自分に好意を抱くと理解していた。けれど、目の前の人間は何かが違う。
──多分、こいつとは合わないだろうな。
予感は正しかった。同じクラス、前後の席でも、侑斗と交わした会話は数えられるほどしかない。
侑斗は独特な生徒だった。クラスの誰ともつるまず、自分から口を開くことは滅多にない。だが、話しかけられればきちんと対応し、言葉選びも上手かった。
誰とも距離を置く一方で、実果子とだけはざっくばらんに話していた。二人の交際の噂は幾度となく流れたが、その度に実果子が火消しに回っていた。
「お前達、マジで付き合ってないの?」
一度だけ、実果子に尋ねたことがある。実果子はきっぱり否定した後、こう付け加えた。
「その質問を侑斗にしたら、あんたのこと殺すから」
同じ教室にいても、侑斗だけは別の何かを見ているようだった。クラスの喧騒を余所に本を読む姿は堂々としていて、孤立という言葉は不似合いだ。
生徒だけでなく、教師からも一目置かれる存在の侑斗に苦手意識を持っていることに、舞紘は言い知れぬ後ろめたさを抱えていた。
生まれ持っての相性の悪さはどうしようもないのに、こちらに非があるように感じさせる侑斗が恨めしかった。堂々とした立ち振る舞いを見ていると、最大のコンプレックス──泣き虫であることを隠すため、校内で泣き場所を探すことに苦心している自分が、ひどくちっぽけな存在に思えてやるせなくなる。
舞紘は高校生活を謳歌したかった。陸上部の監督とは相性が抜群で、走高跳選手としての未来に期待していた。クラスでは明るい人気者ポジションに収まり、輪の中心にいたかった。
だから、侑斗とはなるべく接点を持たないように過ごしていた。そんな舞紘の心を察してか、侑斗も舞紘を避けている節があったのに、今になってこんな事態に見舞われるとは。
さっさと渡して、さっさと帰ろう。そう言い聞かせていると、ざわつく店内に硬質な足音が響いた。
「舞紘?」
表情をしっかり作ってから振り返る。硝子越しの陽光の中、侑斗が見下ろしている。
視線が合った瞬間、周囲の音が消えた気がしたのは、向けられる眼差しが記憶の中の物とそっくり同じだったからだ。
でも、違う部分もあった。少しだけ伸びた髪や、シャープになった輪郭。雪国の高校生が、洗練された都会の男になっている。
「悪かったな、こっちまで来てもらって」
「あ…ううん、近かったし」
上の空に返事をすると、侑斗はメニューを手に「飯食った?」などと訊いてくる。
「俺、バイト上がったばっかでまだなんだよ」
「俺もまだだけど…え、侑斗バイトしてんの?」
成績は常にトップクラスだったのに、定職についていないのだろうか。進学先を思い出そうとしていると、「俺、まだ学生なんだ」と返される。
「院生?」
「いや、学部の三年」
こちらの緊張を余所に、侑斗はタブレットで注文を始める。
「ステーキサラダのブランチセット、オムライスとフライのコンボ。…いちごのパフェ?」
次々と選択されるメニューに戸惑っていると、「全部、俺の分」とさらりと言う。
「…お前、めちゃくちゃ食うのな」
「燃費悪くてさ。食費で毎月赤字だよ」
──これこれ、こういうとこ。
背中がむずがゆくなる。
ネガティブな情報をあっさり開示する真っ直ぐさ。裏打ちされた自信が垣間見えて苦手だった。
「財布。忘れないうちに」
場の空気をどう始末したら良いか分からず、実果子から預かっていた袋を渡す。
「ああ、サンキュ」
侑斗は財布の中身も確認せず、リュックサックの中に放り込んでしまった。せめて金額くらい確認しろよと思ったが、口にはしない。
「これ、実果子のヤツ。手間とらせたな」
「いーよ、全然」
渡された袋を隣に置いて、さて、と思案する。
そもそも、今日侑斗と会うことにしたのは、先日美術館で聞いていたであろう話を漏らさないよう言い含めるためだった。実果子は「侑斗は家族に話さない」と言っていたものの、幼馴染贔屓の発言とも限らない。
「舞紘はいつから東京に出て来たんだ?」
侑斗からボールを投げてくるとは思わず、一瞬返事が遅れた。
「…高校出てすぐ。スポーツ推薦で大学入って、そのままこっちで就職した。侑斗は?」
「俺もそんな感じ。まあ、大学に入るまでの二年くらいは宙ぶらりんな生活だったけど」
「東京で予備校通ってたの?」
会話が途切れるのが不安で、質問を重ねる。
「そういうわけじゃない。大学行くつもりもなかったし…まあ、流れかな。バイト先の人に勧められて受験した感じ」
「ふーん」
侑斗の口から、宙ぶらりんとか、流れで、といった言葉を聞くのが意外だった。記憶の中では、何でも明瞭に答えていたはずなのに。
何やら込み入った事情がありそうだが、掘り下げることはしなかった。どんな苦境があったにせよ、今の舞紘よりひどい状況のはずはない。恵まれた人間の愚痴に付き合うのは御免だ。
「何勉強してんの」
「建築」
「そっか。お前の実家も、そっち系の仕事だったもんな」
侑斗は僅かに目をすがめ、「よく覚えてるな」と呟いた。
「覚えてるよ。だって、俺ん家の稽古場、リフォームしてもらったし」
「ああ、高椿バレエ研究所」
きた、ここだ。
水で口を湿らせてから、「あのさ」と上目遣いに見つめる。
「この前美術館で会った時、話聞いてた?」
「話って?」
「俺と女の子たちの」
「まあ…なんとなくだけど」
「どこまで聞こえてた?」
「…大阪の大会で、ものすごい記録作ったって」
──それだけ?
拍子抜けだった。その後の引退話は、侑斗の耳には入っていなかったらしい。
「そうなんだよ。大学出て、星涼食品の実業団に入ったんだ」
安堵から、強張っていた口元に自然と笑みが浮かんだ。
「実果子と同じ会社に入りたかったのか?」
明後日の方向の問いにリズムを崩されそうになったが、軽く手を振って受け流す。
「いや、んなわけないでしょ。実果子は総合職だし、俺は実業団テスト受けてるし、偶然だよ。で…」
舞紘の悪い癖だ。引退したんだ、と説明すれば良いだけなのに、別の言葉が滑り出てしまう。
「今は、少し休んでてさ」
垢抜けた侑斗への対抗心か、一流企業に勤めている事を羨んで貰えなかった不満か。思わず嘘をついてしまった。
──まあ、いっか。
この程度の嘘は問題ない。誰だって、自分を良く見せたいに決まってる。
「…何かあったのか?」
「ちょっとゆっくりしたくって。中一で走高跳始めて、もう二十五だろ。人生の半分費やしてるんだって気付いたら、人生、それだけでいーのかなって疑問を抱いたっていうか」
「怪我とか、したわけじゃないのか」
「してない、してない」
嘘つけ、といわんばかりに足首が痛む。でも分かっている。これは幻痛に似たものだ。
「あ、そうそう。実業団休んでるって話、勿論皆知ってるんだけど、まあ、俺も悩み中の話だしさ。地元の人とか、俺と共通の知り合いに言わないで貰えると助かる」
「…分かった」
淡泊な返事だった。深掘りされた時の躱し方を考えていたが、侑斗はあまり関心がないらしい。
「それ、どうやって実果子に返すんだ?」
卓上のビニール袋を見ながら言う。
「どうって…普通に、手渡しだけど」
「よく会うのか、あいつと」
その分、実果子の話には食いつきがよかった。なにか探るような意図を感じ、どう返したものかなと迷う。
ずっと会っていなかった、喧嘩っていうわけじゃない…侑斗について尋ねた時の実果子の態度は、どことなく妙だった。
同じタイミングで上京した幼馴染が疎遠になる、何かしらの出来事があったのは確実だ。喧嘩という表現を否定したのは、余程くだらないか、深刻かのどちらか。
興味がないと言えば嘘になるが、巻き込まれるのは勘弁だ。
「俺、地元との付き合いがほぼ切れてるからね。実果子くらいとは連絡とっておかないと」
周知の事実と、さらりと口にしてみせる。触れてほしくない話題は、自分から出した方がコントロールが効くものだ。
「なんで。お前、友達多かっただろ」
「なんでって…」
──こいつ、わざとか?
同じ学年にいて、「あの件」を知らないはずがない。
少しの沈黙の後、侑斗は「悪い」と呟いた。
「思い出した?姉ちゃんと、エビ先のこと」
あえて明るく尋ねると、気まずげに視線を伏せられる。
「…覚えてはいたけど」
高三の六月、舞紘の姉と、陸上部の顧問との交際が発覚した。直前の大会で好成績を収めていた舞紘は身内贔屓を疑われ、部活どころか、学校内での居場所を失うことになったのだ。
「悪い、本当に。お前、その後…平気そうに見えたから」
──平気なふりする以外、ないだろ。
徐々に立場は回復したものの、陰口を叩いていた人間と元の関係に戻れるほど、舞紘はお人好しではない。同情されるのもまっぴらと、気丈に振舞う他なかったのだ。
「お前は?地元の連中に会ってる?」
わずかな苛立ちを抑えながら尋ねると、侑斗は何故か小さく吹き出した。
「…なんだよ」
「いや…。お前こそ、何か思い出すことないのか?俺の噂のことで」
肩を揺らして笑われ、戸惑ってしまう。
「ないけど」
「本当か?」
「女関係が派手だった話?」
認めたくないが、高校時代、侑斗は舞紘よりモテていた。
「…違う。高三の夏休み前くらいに、色々言われてただろ」
「あ、それは無理」
あっさりと白旗を挙げた。
「姉ちゃんとエビ先の件があった後、俺、入院してたし。退院した後は話し相手もいなかったし、噂系は何も知らない」
事実だった。
退院後、四面楚歌となった舞紘はひたすら部活に打ち込んだ。東京の大学にスポーツ推薦で入学し、地元と縁を切ることを決意したからだ。
無事合格の返事が届く頃には、舞紘の噂を口にする者はいなくなっていた。卒業まで尾を引くと覚悟していたので、呆気なさに拍子抜けしたことを覚えている。
侑斗は頬杖をつくと、舞紘の顔を見つめた。
侑斗が舞紘の実業団引退に興味を示さなかったように、舞紘も侑斗の事情を知るつもりはない。それが伝わるよう、視線は逸らさなかった。
「…知らないんだな、本当に」
ぽつりと呟いた言葉は、いくつもの感情がこもっていた。
心の機微を読み取るのは得意だ。喜び、安堵──他には?
答えを探し終える前に、食事が運ばれてきた。侑斗の食事のペースは案外ゆっくりで、帰るタイミングが掴めないまま、皿が空になるまで付き合っていた。
「お花見とか行くの、侑斗」
「多分。大学が上野公園の傍だから、毎年誰かしらに引きずり込まれる感じ」
「へー、いいじゃん」
気負わず会話が続けられたのは、お互いワケあり同士だと気付いたからかもしれない。
いつの間にか、会うまでに感じていた億劫さも消えていた。高校時代もこんな風に接してくれれば良かったのに、という舞紘の小さな恨みは、春のそよ風に飛んでいく。
なんとも不思議な、うららかな午後の出来事だった。
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