<2>嘘も方便

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「ご希望に沿う物件は…今のところ、ないですね」  同じ返事を、今日だけで三回は耳にした。 「物件が動くのって、大学受験とか、異動の内示が出る頃なんですよ。今の時期はなかなか…」 「ですよねー」  あははと明るく笑うと、不動産屋の社員は険しい表情で眉間をこする。 「週明けにご契約希望…うーん」 「困ってるんですよ。今住んでるとこ、急に家賃上がっちゃって」  彼女に振られて家を追い出されました、とは言いたくない。 「どこかに相談はしましたか?急な申し出なら交渉も出来るんですよ」 実果子が出張から帰ってくるまであと五日。平日は仕事があり、物件を見て回る余裕はない。今日が勝負と意気込んでいたのに、見通しの立たなさに不安を覚えた。  ──いやいや、なんとかなる。大丈夫。  この近くのスポーツクリニックに長く通院していたため、土地勘はある。他の不動産屋もめぐってみよう。諦めるのはまだ早い。  店を出て、桜が満開の坂道を下る。グランプリ陸上で腱断裂を負った時、リハビリに使っていた場所だった。  見慣れた景色に、苦い思い出が次々と蘇ってくる。  リハビリを続けること半年、二度目の腱断裂が起きた。復帰に焦り、周囲の目を盗んでオーバーワークを重ねたせいだった。  病院のベッドの上で、まだ頑張れると言った舞紘に対し、監督は首を横に振った。医師の「二度と歩けなくなるかもしれない」という言葉もあり、退団を受け入れる他なかった。  中途半端にくすぶった熱は徐々に冷え固まったが、今も納得は出来ていない。チームメイトの近況を知る事すら辛く、連絡も途絶えさせたままだ。 「高椿先輩?」  男にしてはやや高めの声に顔を上げる。小柄な青年が棒立ちで見つめていた。 「鶴田(つるた)」 「お久しぶりです!」  実業団の後輩だった。面倒な相手と出くわしてしまったな、と内心ため息をつく。  そんな舞紘の胸中をよそに、鶴田は子犬のように駆けよって来る。 「こんなところで会えるなんて。先輩、お元気でした、か…」  ここがクリニックの近くと気付いたのか、言葉半ばに顔を曇らせ、舞紘の足首に視線を送る。  「えっと」 「元気だよ。お前こそこんな場所でどうした」  視線を振り払いたくて、とびきり明るい声を出した。 「最近、腰痛がひどくって。ちょっと診てもらったんです」 「大丈夫なのか」  鶴田の鞄からは薬袋が覗いていた。 「ベッドのマットレスがあってないんじゃないかって言われました。この前買い替えたばっかりなんですけどね」  早く会話を終わらせて立ち去りたいが、鶴田は舞紘に会えたことが嬉しくてたまらないといった様子だ。尊敬の音がこもった眼差しに現役時代を思い出して、鬱陶しいと感じる自分が悪者のように感じてしまう。 「先輩、この後時間ありますか?」 「時間?なんで」 「練習、見に来ませんか」  無邪気な提案に、笑みがひきつりそうになる。 「最近、調子がイマイチで。先輩にフォーム見て欲しいんです」  鶴田に他意はない。舞紘を慕う一心で喋っているだけだ。  それが、たまらなく嫌だった。 「悪いけど、用事があるから」 「じゃあ、夜はどうですか?」  食い下がられ、ため息を堪えて苦笑いを返す。 「夜間練は今やってないだろ」 「寮の飲み会があるんです。月陸(げつりく)の取材班もくるので、先輩も来てください。きっと皆喜びますよ」  舞紘も何度か世話になった陸上雑誌の名を出し、鶴田は懸命に誘い続ける。  ──いい加減、空気読めよ。  選手と記者が集まる場に、引退した人間が顔を出して何になる。悲劇の主人公ぶるのも、ピエロを演じるのも御免だ。  鶴田の無神経さを可愛いと思う余裕なんて、今の舞紘にはないのだ。実業団選手の肩書もなく、恋人もおらず、住む家もない。  飲み会に出れば近況を聞かれるだろう。どう、最近体動かしてる?仕事は慣れた? ──くそくらえだ。 「夜も用事があるし」 「でも」  大きな瞳に浮かんだ同情を舞紘は見逃さなかった。  勘弁してくれ。お前にまで哀れまれたら、いよいよ立つ瀬がなくなるじゃないか。  鶴田は舞紘に憧れて星涼に入ったのだ。大学時代、高校生の鶴田にサインを書いてやったこともある。  あの頃は良かった。怪我もせず、やればやるほど成果が出て、記録もどんどん伸びて…。  鼻の奥がツンとする。喉の奥がきゅっと狭まる。まずい、泣きそうだ──。  その時、ポケットの携帯が鳴り始めた。 表示された名前を見た瞬間、驚きで涙も引っ込んだ。  鶴田に視線を向けると、どうぞと掌を向けられる。立ち去るつもりはないようだ。 『…舞紘?』  苛立ちを抑えながら通話ボタンを押すと、侑斗の声が聞こえた。 「うん。そうだよ」  自分からかけてきた癖に、侑斗は黙っていた。電波でも悪いのかと「もしもし」と言うと、やっと「今どこ?」と返ってくる。 「どこって…目白だけど」  もう連絡をとることはないと思っていた相手だ。一体何の用件かと身構えていると、侑斗は妙な歯切れの悪さで切り出した。 『…なあ、今から会わないか?』 「──え?」  思いもよらない提案に、間抜けな声を上げてしまう。  なんでだよ、と言いかけた時、鶴田の熱い視線に気付いた。咄嗟に愛想の良い笑みを貼り付け、「良いよ」と返す。 「集合場所送っといて。じゃあまた」  携帯を仕舞い、「悪いな」と鶴田に笑みを向ける。 「いえ!先輩、相変わらずモテモテですね」  電話の相手を女の子だと思ってくれたらしい。否定もせずに別れると、反対側の歩道から、ジョギング中の大学生が列をなして坂道を上がってくるのが見えた。  スタートしてそう時間は経っていないのだろう、桜の木を見上げながら笑い合う姿は溌剌として見える。  ──どうにもならなかったな。  なんとかなる──怪我をするたび、自分に言い聞かせて来た。大丈夫、きっと治る。怪我をするのはこれが最後。  気休めじゃない。現実を見るのが怖くて、自分に嘘をつき続けた。 「…馬鹿だよなあ」  誰かの優しさも甘えも、今の舞紘には重荷でしかない。  それなら、侑斗と会うのは良い気晴らしに思えた。侑斗ほど舞紘に無関心な人間はいないからだ。  届いたLINEに目を通す。侑斗らしい、そっけない文面にほっとした。
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