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<3>嘘をつかねば仏になれぬ
家賃はいらない──管理人兼居候である侑斗からそう言われたものの、学生の侑斗と全てを折半というのは気が引ける。手っ取り早く、家計費を最も占めている食費を舞紘が負担し、その他は侑斗が支払うことにした。
「で、この家の持ち主とやらはどこに住んでるわけ?」
同居を開始して数日、冷蔵庫からビール瓶を取り出しつつ尋ねると、侑斗は焼きそばを盛り付けながら「湾岸エリア」と答える。
「売るなり貸すなりすれば結構な金になりそうなのに、勿体なくない?」
「お金に困ってない人だから。それに、空き家って傷みが早いんだよ。管理人を雇うと高くつくし、俺が住んだ方が都合が良いんだってさ」
家主と侑斗、双方でウィンウィンの関係が成立しているらしい。
すれ違いが続いていて、二人で食事をとるのはこの日が初めてだった。
縁側に夕食を並べ、横並びに座る。
「じゃあ、これからよろしく」
「おう」
ビールの小瓶をぶつけあい、ぐびりと煽る。
夜風が吹く度、庭の花や樹木たちが潮騒に似た音を響かせている。良い夜だなあ、と思った。
「実果子に合鍵返したのか?」
「うん、家出る時に」
「…俺と住んでること、話したのか?」
「話そうと思ったけど、あいつ、やたら機嫌悪くてさ。それどころじゃなかったわ」
出張の疲れなのか、実果子はとにかく機嫌が悪かった。あまりの態度に舞紘もへそを曲げてしまい、話を途中で終わらせてしまったのだ。
「…悪い」
なぜかいきなり、侑斗が謝って来た。
「あいつが機嫌悪いの、俺のせいだ」
「なんで」
「喧嘩した」
実果子が東京に戻る前の晩、電話で言い合いになったという。それ以降、連絡もとっていないと聞いて呆れてしまった。
「そんなしょっちゅう喧嘩してどうすんだよ」
「しょっちゅうってなんだよ」
侑斗は眉間に皺を寄せたまま焼きそばをすすっている。
「高校卒業してから会ってなかったって、実果子が言ってたぞ。卒業する前になんか揉めたんだろ」
「地元の連中とは誰とも会ってねぇよ。別に実果子だけじゃない」
「…実果子と他の連中を一緒にするのはかわいそうだろ」
特定の人と親しくせず、一匹狼を貫いていた侑斗はすごいと思う。だが、他の同級生と実果子を一緒くたにするのは薄情に思えた。
「さっさと謝ってやれよ」
「どっちが悪いとか、謝るとか、そういう話じゃないから」
言外に、お前には関係ないと線引きされたようでむっとする。
侑斗は鳥革を串から外すと、箸で一気に掴んで口に放った。豪快だが、箸使いが綺麗で汚く見えない。
──まあ、二人の問題だし。俺が首を突っ込むのも微妙か。
舞紘にとっては好都合だ。侑斗には嘘をつき過ぎている。実果子と話題に出されたら一発でアウトだ。願わくば、舞紘が家を見つけるまで二人には喧嘩を続けていてもらいたい。
「てか、侑斗は今彼女いないの?俺が来ちゃったら、女の子連れ込みづらくない?」
「連れ込まない」
舞紘は少し考えてから、慎重に言葉を選ぶ。
「お前の家なんだし遠慮するなよ。連絡してくれたら一晩くらい外で過ごすし」
「忙しくてそんな暇ねえよ」
それ以上話は広がらず、飲み会はお開きとなった。侑斗は大学の課題が残っているため自室にこもり、舞紘は一人で洗い物を請け負った。
侑斗が料理と片付けを並行していたため、十分とかからずキッチンは綺麗になった。思った以上に早く終わってしまい、時間を持て余してしまう。
この家にはテレビがない。舞紘は静かな場所にいると寂しくなるが、侑斗は全く平気らしい。結局、布団に寝転がる以外の選択肢はなかった。
実果子からLINEが来ていた。日中の態度を謝りたいものの、正面から言い切るのも癪だという内容だ。
(そんな態度だから侑斗とも揉めるんだろうが)
思ったことをそのまま返信しそうになって我に返る。
深入りは禁物だ。高校時代に比べれば大分マシだが、やはり侑斗との間には壁がある。
例えば、高校卒業から大学入学までの間。侑斗は単身東京で過ごしていたらしいが、その理由を舞紘に明かすことはないだろう。
誰にでも話したくないことの一つや二つはあるものだし、それで構わない。見せる部分、見せない部分。上手く演出しないと、人間関係はガタがくる。
どれくらいの期間になるかは分からないが、一つ屋根の下で暮らす相手だ。まだ友人と言い切れる関係ではないし、無論、恋人でもない。立ち振る舞いには十分気を付けなければ。
酔いで火照った肌は薄っすらと汗をかいている。風呂でも入ろうかと考えている内、侑斗が近くに銭湯があると話していたことを思い出した。
腹筋のみで起き上がって廊下に出る。すりガラスのはめ込まれた扉が、侑斗の作業部屋だ。
「侑斗ー、俺、風呂行ってくる」
扉越しに声をかけるが、返事はない。
数秒躊躇ってからドアノブを回すと、隙間から走った光が、侑斗の背中に模様を描いた。その揺らぎに気付いたのか、侑斗が振り返る。
「ごめん、邪魔した?」
「いや。どうした」
言いながら、耳からイヤホンを外す。無視されていたわけではなかったと分かってほっとする。
「銭湯行ってこようと思って」
「ああ、気を付けてな」
「一緒に行く?」
「…やることあるから」
侑斗はラグの上に片膝を立てて座り、カチカチとマウスをいじっている。
扉を閉めかけた時、部屋の隅に置かれた模型の棚に気が付いた。少年心を刺激されて覗き込むと、「あんま見るな」と注意が飛んでくる。
「なんで?お前が作ったんだろ。すごいじゃん」
家やカフェ、様々なミニチュアの建物が鎮座している。
「出来が悪い奴ばっかりだから嫌なんだよ」
「俺からしたら十分すごいけど。…なあ、これ誰の家?」
「誰のってこともない。バイト先で、余った材料もらいながら作っただけ」
自分でテーマを決めて、勉強がてら作っているらしい。
「なんとなく、初心を忘れないために置いてるだけで、人に見せるようなものじゃない」
「侑斗、建築家になるの?」
「そのために大学行ってるからな」
「…ふーん」
聞き流すふりをしても、胸の軋みは無視できなかった。
中一の冬、初めて自分の身長を超す高さを飛んだ。でも、今の舞紘には、あの時の映像を見返す勇気がない。
棚の奥に目をやる。もっと見栄えの良い、大作の模型がいくつも目についた。舞紘なら絶対、あの模型たちを手前に置くだろう。
過去を傍に置きながら、未来を見つめる強さが侑斗にはある。
ああ、よくない感情だ。粘度の高い泥水が、胸の奥からぐずぐずと溢れ続けていく。駄目だ、駄目だ──。
「──風呂行ってくるわ」
外に出るなり、荒い足取りで坂を駆け降りた。
高校の頃も、似た思いで侑斗を見ていた気がする。誰からも一目置かれていて、一人でいても寂しく見えない。敵わないと思うと同時に、羨ましくて、妬ましかった。
初めて会った時、そっけない態度を示されても腹が立たなかったのは、関わっても得のない相手だと踏んだからだ。
侑斗の傍にいると惨めな気持ちになる──その予感は正しかった。それなのに一緒に暮らし始めるなんて、あの時の自分はどうかしてた。
道の途中で、公園を見つけた。膝の高さほどの遊具をしばらく眺めた後、助走なしで飛び越えてみる。
難なく飛べた。けれど達成感はない。当たり前だ、たかだか五十センチしかない。
もっと飛べる。自分より高い場所へと、踏切足一つで飛んでいける高揚感が欲しい。飛ぶ瞬間、自分が自分でなくなるような神秘的な感覚。
金網が視界に入る。一メートル七十センチくらいだろうか。
後ろを振り返る。助走には向いていない坂道だ。でも、距離は十分。接地時間を短くしたら飛べる気がした。
助走は緩くカーブを描きながら。頭の中でイメージをする。一歩、二歩、三歩目で踏切れば──。
スタートラインを見極めていると携帯が鳴りだした。どうでも良いと無視する。今は飛ぶことが何より大事だ。
距離を目測する。いける。鹿をイメージして一歩大きく跳ねながら走る。二歩目はもっと勢いをつけて。フェンスが迫る。恐怖はない。三歩目。
──いける!
だが、その時舞紘は大きな過ちに気付いた。脳が警告を送る。慌てて急ブレーキを踏んだ拍子に、アスファルトに無様に転んだ。
腰骨に、肘に、じんじんと傷みが広がる。誰もいないのを良いことにしばらく寝転んだままでいた。
その間も、地面に放り出された携帯が鳴り続けている。画面に表示された名前に、ため息が零れた。今、彼女のお喋りに付き合う心の余裕はないというのに。
『もしもし、まーくん?』
「…おう」
それでも出てしまったのは、多少の罪悪感があったからだ。
『ごめんね急に。今大丈夫?』
「おー」
マットレスもなしに百七十センチをジャンプしようとしてました、と答えたら、絵梨はなんて言うんだろう。
頭がおかしくなったと思われるのが関の山だ。体を起こし、フェンスに背中を預けて空を見上げた。
「どしたの」
『実家から書留きてるの。引っ越した事、話してないの?』
責めるような言い振りではなかった。単純に、疑問なのだろう。
絵梨は両親と仲が良い。美味しい食べ物、楽しかった場所、日常の些細なことまで細やかに報告していた。
「中身なに?」
『開けて良いの?』
「いーよ」
予想通り、高椿バレエ団の発表会のチケットだった。事務員が送って来たのだろう。
「捨てちゃって良いよ」
『行かないの?』
「その日予定あるし。この前母親から連絡あって断ったんだけど、うっかり送ってきちゃったんだろうな」
嘘だった。父親はともかく、母親から連絡が来たことなど、東京へ来てから一度もない。
『そっか。じゃあ、私行ってこようかな』
「何言ってんだよ」
絵梨らしくない冗談だった。若干の焦りを悟ったのか、「嘘だよ」と笑い交じりに返ってくる。
『しないよ。先輩がいるのに、そんなこと』
「あー。付き合い、順調?」
『うん。来週、実家にお邪魔するんだ』
「へー…」
責められているように思うのは、気のせいだろうか。
絵梨が舞紘の両親と会いたがっていることは分かっていた。だが、自分の家族仲を説明するのは億劫だったし、交際の主導権を奪われるのが嫌で避け続けていたのだ。
『まーくん、どこに引っ越したの?』
「神楽坂」
『いいな。美味しいお店たくさんあるよね』
「あんまり長話してると、先輩に悪くない?」
話を切り上げたいと暗に伝えると、迷うような雰囲気が伝わって来た。
「どうしたんだよ」
絵梨は一番長く続いた恋人だ。嫌い合って別れたわけではないのだし、妙な態度を取られたら心配にもなる。
『誤解したままなんじゃないかと思って』
「なに」
最後の方は二股かけてたことなら知ってるよ。俺がけしかけたんだから、言い訳しなくて良いよ。
『……まーくんが、走高跳辞めたから冷めたとか、そういうんじゃないから』
吸い込んだ息が、針になって突き刺さるようだった。
『本当に違うの。ただ…私がしっかりしてなかったから。まーくんは悪くないから…』
支えてく自信、なくしちゃった。そう言って、涙をめいっぱいためた絵梨の顔が思い浮かんだ。丸い頬に伝う涙と、柘榴色に染まった唇の色鮮やかさ。
俺こそごめん、と舞紘は言った。精一杯優しい笑みを浮かべて、柔らかな猫っ毛を撫でた。
内心ほっとしていた。ああ、これでやっと解放される。「あの頃の俺」と、「今の俺」を比べる存在から離れられる。
──とんだ茶番だ。
耐えられなくて、無言のまま電話を切った。
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