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4 サルガッソ海
「船長、ちょっと」一等航海士が青年の肩を叩いた。「どうもおかしいんですがね」
船首で仁王立ちしていた青年が振り返る。「今度はなんだ、いったい」
「船がちっとも動いてません。帆もご覧の通りです」
青年が促されたほうに目をやると、マストは射精したあとの陰茎のように萎れていた。「風が凪いでるようだな」
「それだけじゃありません。海を見てください」
海面には気味の悪い藻が隙間なく漂っていた。浮遊性の海藻、サルガッスムである。
「するとここが船の墓場、サルガッソか」
「とんでもない場所に迷い込んでしまいました。これがクルーたちにバレでもしたら――」
「あ、あれを!」例によって見張りが金切声を上げた。「変な海藻が浮いてるぞ」
たちまちクルーたちが船側に走り寄っていき、われ先にと海を眺め始める。
「サルガッスムだ!」
「あれに絡め取られると、どんな船も身動きひとつできなくなるって話だぞ……」
「俺たち、サルガッソ海に迷い込んじまったのか?」
一等航海士は頭を抱えた。「言ってるそばから……」
船はその日、ほとんど動かなかった。
翌日も、その翌日もまるで錨を降ろしているかのように微動だにしなかった。
クルーたちの騒擾は日増しにひどくなっていった。甲板での喧嘩が絶えず、食料が目減りしていくことに対する恐怖心がさらに彼らの心理状態を悪化させていく。
神経質になったあるクルーは、1時間ごとに錨が降ろされていないか確認しにいく始末であった。
そんな騒ぎをよそに、青年は棒きれで海に浮かぶ海藻をつついている。
「なにをしてるんです、船長」一等航海士は呆れ顔だ。「遊んでる暇があったら甲板に来てください。もうわたし一人では混乱を鎮められません」
「これを見てくれ」青年は棒切れで海藻を掬い上げ、一等航海士の眼前に垂らしてみせた。「どう思う?」
「どう思うもなにも――」
「サルガッスムはこの通り薄っぺらな代物だ。こんな藻ごときで船速が鈍るとはとうてい思えん」
「そう言われてみれば、確かに」
「最近帆が膨らんでるのを見たか?」
一等航海士はあっと声を上げた。「すると船が動かない原因は……?」
「船がサルガッスムに絡め取られたのではなく、風が凪いでるからだ」
「文字通り風任せというわけですか」
「悲観することはない。風には波がある。海に波があるように」
〈ディスカバリー〉号がサルガッソ海で停滞に入った1週間後、射精後の陰茎のように萎んでいた帆が再び膨らみ始めた。
「見ろ、風だ、風が戻ってきた!」見張りは手を振って合図を送った。「総員操船体勢へ移れ!」
青年は船首に仁王立ちしながら、会心の笑みを浮かべた。「またひとつ、伝説を打ち破ったぞ」
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