5 ガイアの縁

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5 ガイアの縁

 船はついに世界の涯である〈ガイアの縁〉へとやってきた。 「見ろッ!」見張りは喉も避けよとばかりに絶叫した。「海が途切れてる。俺たちは〈ガイアの縁〉に着いたんだ」  それは想像を絶する光景であった。まだ幾分先ではあるものの、そこで海がすっぱり途切れているのだ。耳を澄ませば莫大な水が流れ落ちている音が轟々と響いてくる。〈ガイアの縁〉は目前に迫っていた。 「船長、いよいよですね」一等航海士は身震いしている。「伝説上の存在がいま、本当に目の前にあるんですよ」  甲板で操船を担っているクルーたちは、例によって半狂乱のていであった。 「海が滝になって落ちてるぞ!」 「この船も海の藻屑になっちまうんだ」 「錨をッ! 錨を降ろせ!」  投錨命令は実行されなかった。誰もが滝に呑まれる悪夢に翻弄されており、まともに動ける人間がいなかったのである。 「どうします、船長。このまま座して死を待ちますか」  一等航海士の悲壮な問いにも答えず、青年は腕を組んで沈思黙考している。そのあいだにも船は〈ガイアの縁〉へ向かって刻一刻と吸い寄せられている。縁の近辺では傾斜がきつくなっているのか、帆は畳まれているのに船速は増すばかり。 「アーメン」一等航海士は十字を切った。 「どうもおかしいぞ」 「ええ、おかしいでしょうとも。わたしたち全員の命が懸かってるというのに腕組みなんかして――」 「〈ガイアの縁〉は世界の涯である。ここまではいいか?」 「それ以外にどう解釈しろというんです」 「滝になってるということは、この世界は〈ガイアの縁〉に向かってわずかに傾いでることになる。水は高きから低きに流れるからね」  青年と一等航海士が禅問答じみたやり取りをしているあいだにも、超弩級の滝へ向かって船は着実に引き寄せられている。クルーたちの狂騒はピークに達し、最後の晩餐とばかりに貴重な食料を貪り食う者、燻っていた恨みを晴らすべく喧嘩騒ぎを起こす者、ひざまずいて神に祈る者、ストレスに耐えかねて糞尿を垂れ流す者、その他いろいろの奇態を演じ始めていた。 「わたしには当たり前の話に聞こえますが」 「そうであるならば、どうして船は帆を張らなければならなかったんだ? 傾斜があって海に流れがあるのなら、〈ディスカバリー〉号は面倒な操船なんかしなくてもここへ引き寄せられてたはずだろ」  一等航海士は眉間に皺を寄せた。「サルガッソ海での停滞もおかしいですね。海流に乗ってれば凪なんか関係ないはずだ」 「ぼくは出帆する前、オリュンポス山に登ってるんだけど」  相方は目を丸くした。「なんと罰当たりなことを!」 「そこから眺めた海の形が忘れられないんだよ。驚くべきことに、水平線はわずかに丸みを帯びてたんだ。最初はそれが〈ガイアの縁〉だと短絡的に推定したんだけど」 「神々のいたずらだったのでは?」  青年は航海士の意見を一蹴した。「①〈ディスカバリー〉号の動力は風力である、②〈ガイアの縁〉に辿りつくのにわれわれは①が必要だった、③海は十分な標高地点から眺めると丸みを帯びているように見える。これらから導き出される答えはなんだろう」 「船長、落ちる、船が落ちる!」見張りの絶叫が大海原にこだました。 「〈ガイアの縁〉などという滝は存在しない……?」おずおずと一等航海士が答えた。 「然り。そしておそらく地球は平面ではなく、球体だと思われる!」  青年が宣言した瞬間、滝の最下部から水が逆流し始めた。それは絨毯のごとく流麗にまくれ上がり、深淵へと続いていた大穴をすっかり塞いでしまった。あとに残されたのは、眼前に広がる茫漠たる大海原のみ。 「みんな、聞いてくれ」青年は唖然としているクルーたちに向かって呼びかけた。「いま見た通り、天動説は否定された」  聴衆はパニック状態からすっかり醒め、甲板の上に正座して青年の演説に聞き入っている。 「ぼくたちは迷信と思い込みの世界に生きてる。でもこうして真実を喝破したいま、虚構はもろくも崩れ去った。いいかい、地球は平面ではなく球なんだ。妄執やパニックを克服できれば、自然はありのままの姿を見せてくれる。それがいま、こうして証明された」  一等航海士は息を呑んだ。「――天動説が間違ってるとでも言うんですか?」  コペルニクス青年は厳かにうなずいた。
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