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マスターの小噺 - パニックにまつわるエピソード
そこは都内某所。入り組んだ路地を抜けた先にある雑居ビルの七階。そのバーは人知れずそこにあった。インターネットにも一切の情報を公開していない、こじんまりしたバーだ。
軋む音をたて、入口のドアが開く。今宵もひとりの客が店を訪れた。
慣れた動きでカウンターの椅子に座ると、サングラスを外し開口一番、「マスター、久しぶり」
「いらっしゃいませ」
「今日は近くで撮影があってねぇ」
「それはそれは」
「マッカラン。ストレートで」
少し乱れた前髪をさらりと整えた客は、マスターの背後に並ぶボトルを指差し、ウイスキーを頼んだ。
「ほんとこの店があって良かったよ。人気商売は性に合ってるんだけど、有名税ってやつがねぇ。うっかり一般の店に足を踏み入れちゃったらもう大変。お客さんが一斉にパニックになっちゃうからさぁ」
「そりゃ、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気俳優、神原樹が下界に降りてきちゃマズいでしょう」
「先日もさぁ、地方で撮影があったときに――」神原は最近の出来事を饒舌に語りはじめた。
「この店は周囲に人気もないし、店内もいい感じに暗いし、とにかく落ち着くよ」
「それはそれは、ありがとうございます」
マスターはボトル片手に軽く会釈をした。
「まぁ、有名人が突然現れたら興奮するのもわかるけど、あんなにもパニックになるものかねぇ。みんながみんなマスターみたいに冷静沈着で、何事にも動じない人間だったらいいのに」
「そう見えます?」
「もちろん」
「そうでもないんですよ、これが」
照れ笑いしながら神原の前にウイスキーを差し出す。
「マスターのそんな姿、見たことないけどなぁ」
「自分でも取り乱さない性分だと思っていたんですが、やはりわたしも人間ですねぇ」
人気俳優に促されるように、マスターは自身のエピソードを語りはじめた。
「この店、一度、営業できなくなったことがあるんですよ。あっ、金銭トラブルやお客さんとの揉め事じゃあないですよ」
「へぇ、知らなかった。何があったの?」
「わたしのお恥ずかしい失態で……って感じですね。女優の柴田悦子って、ご存知で?」
「そりゃ、もちろん」
「わたし、彼女の大ファンでして。このバーには男女問わず、多くの役者さんが訪れるでしょう。まぁ、ミュージシャンや作家さんなんかもたくさんお見えになられますが」
「柴田悦子も店に来た、と?」
「そうなんです。もう十五年ほど前ですねぇ。いつもと変わらず営業していたら、フラッとおひとりで。ご覧の通り、ウチは店内が暗いでしょう? 最初は気づかなかったんですが、カウンターに座り、ウイスキーを注文される時、ふとその顔を覗いた瞬間、『わぁ、柴田悦子だ』って」
「で、取り乱しちゃったの?」
手にしたグラスを傾け、唇をウイスキーで湿らせた神原は、軽く肩を揺らした。
「いえいえ。さすがにその程度で取り乱しているようじゃ、バーテンダーなんて務まりませんよ」
「黙ってうっとり見とれてたわけだ」
「ですね。光栄にも、ちょっとした会話を楽しませてもらいました。わたしの人柄を気に入ってくれたのか、それからというもの、彼女は何度も店に足を運んでくれるようになりましてねぇ。
お昼間にお目にかかっていたら、さぞかし緊張して、ロクに会話もできなかったかもしれない。ただ、幸いにもこの店内の雰囲気。薄暗い空間と、カウンターを隔てた距離。それが功を奏したんでしょう。彼女もすっかり気を許してくれて。
そんな浮かれた夜が続いたある日、事件は起きたんです」
「事件? なんだか穏やかじゃないなぁ。それは興味深い」
ゆったりした時間の流れと、マスターの深みある語り口。神原は空いたグラスをマスターに差し出すと、おかわりを注文した。
「その夜も、いつもと変わらず、柴田悦子は同じ席、同じ酒。同じ調子で会話していたんです。すると、急に彼女、黙り込んじゃったんです。気分でも悪くなったのかと心配になったもんで、『大丈夫ですか?』と、俯く彼女にそっと声をかけましたよ。すると彼女、顔を上げるや否や、何って言ったと思います?」
「さぁ。何だろう?」
「結婚して欲しい、って」
「えっ、結婚!?」
「ちょうどその時、わたし、別のお客様のカクテルをシェイクしていたんです。こうやって」
シェイカーを構える素振りをし、手首を小刻みに振ってみせた。
「で、わたし、すっかり取り乱してしまって。そう、まさにパニックになっちゃって。シェイカーを振る動作が乱れに乱れ、思わず肘がガンッ――」
「ガンッ?」
「えぇ。ガンッ! ズラリと並ぶボトルたちに向かって、ガンッ! やっちまった! 慌ててボトルを受け止めようとした拍子に、態勢を大きく崩し、そのままドシンッ! あとは、ガラガラ、ガシャーン」
「うわぁ、悲惨だ!」
「大半のボトルが床に落ちてしまい見るも無惨。とうてい営業できる状態じゃなくなってしまって。ほんと、お恥ずかしい限りです」
「まぁ、あの大女優、柴田悦子にいきなり結婚を迫られたら、誰だって、ねぇ。やっぱりマスターでも、取り乱すことがあるんだねぇ」
「実は、それだけじゃないんですよ――」
「続きがあるの?」
「えぇ。もう彼女、業界から引退してるんで、影響はないと思いますし、仲の深い神原さんだからお話しますが――あの柴田悦子の夫、実は、わたしなんです」
「ええぇ!! そうだったんだ! 彼女と無事ゴールインできたんだね! マスター、やっぱり隅に置けないねぇ」
「まぁ、おかげさまで。ただ――」
「ただ? 大女優を捕まえておいて、何か不満でも?」
「不満ではないのですが……彼女と会っていたのは、いつもこの店。外では一切、彼女と会ったことがなかったんですね。その状態で、彼女からのプロポーズ。大ファンだったわたしはその場で即答しましたよ。『ぜひ!』って。で、無事に結ばれることになったわけですが……」
「どこに不満が?」
「一緒に暮らしはじめた初日です」
「もしかして?」
「そう、そのもしかして、ですよ。入浴後の彼女がリビングに現れたとき、思わず目を疑ってしまった。目の当たりにしてしまったんです」
――柴田悦子のスッピンを。
二人は声をあわせて言った。
「誤解しないでくださいね。わたしが言いたいのはですねぇ、不細工だったとか醜かったとか、そういう品のないことじゃないんです。要するに……まったくの別人だったわけです」
同情するよと言わんばかり、何度も頷いて見せる神原。
「もちろん、神原さんもご存知だとは思いますが、業界のメイクアップ技術は相当なもんです。それはそれはもう、完全なる別人。で、再びやらかしてしまったわけです」
「な、何を?」
「そりゃ、パニックですよ。わたし、驚いてしまって、勢いよく後退ってしまったんです。あろうことか、背後には食器棚。肘がドンッ! 食器類がガシャーン。
いつも冷静沈着なわたしが取り乱す様子を見て、彼女、泣き出してしまったんです。一緒に暮らすと決めたときから、彼女自身、覚悟はしてたと思うんです。ただ、あまりにも大胆にわたしが驚いてしまったものだから、相当ショックを受けたに違いない。いま思えば、申し訳ないことをしたなぁ、と」
「大女優を泣かせるなんて、ひどい男だ」
手にしたグラスを揺らしながら、神原は無邪気にマスターをからかった。
「それからというもの、闇、ですよ」
「え? 二人の関係にヒビが入ったとか? 結婚生活がうまく行かなかったとか? もしかして……離婚しちゃったとか?」
「いえいえ、彼女とは今も順調ですよ。ただ――」
「ただ?」
「闇なんです、我が家。日中でも一切、明かりをつけない家。常にカーテンを閉めっぱなし。光が入らない家で暮らしてるんです」
「まさか……」
「わたしが再びパニックを起こさないようにと、彼女が配慮した結果です。彼女自身も、それを望んだんでしょう。心の傷を覆うカサブタを剥がしてしまわないように、と」
「光が差し込まない家か……いったいどんな家なんだろう? 想像もつかない」
「簡単に言うとですねぇ、こんな感じです」
マスターは自身の店を自慢するように、大きく腕を広げてみせた。
「自宅の闇からバーの闇へと、日々、移ろっているわけだ」
「そういうわけです。あの日からずっと」
「せっかく憧れの女優と結婚できたのに、やるせないなぁ」
「ところが、そうでもないんですよ」
「闇にも楽しみが?」
「えぇ。ここだけの秘密ですが――」
客が神原しかいない店内。にも関わらず、マスターは周囲を気にするように、声のボリュームを落とした。
「早朝、彼女が安眠している頃を見計らって、わたし、ちょこっとだけカーテンを開けてみるんです。すると、薄っすら朝日が差し込む。それが彼女の顔を照らす。
先ほども言ったでしょう。わたし、彼女の素顔が不細工だとか醜いだとか、そういうことを言いたかったわけじゃない。あまりにも別人だったことに驚いただけなのです。
朝日を受けた彼女の顔をうっとり見つめるんですよ。やっぱり今でも、わたしは彼女の大ファンです。彼女をひとり占めしている優越感。すぐそばに憧れの女優が眠っているという高揚感。それは至福の瞬間なんです。で、わたしは彼女の頬に、キスするんです」
白昼夢でも見ているかのように、マスターはとろけた表情を浮かべた。
「ただし、そっとですよ。ソフトに柔らかく――じゃないと、彼女が目を覚ましてしまう。朝日を浴び、素顔を見られていることに気づいちゃうと大変! 彼女、きっとパニックを起こしてしまうでしょうから」
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