1、私の遺書を書いてほしい

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1、私の遺書を書いてほしい

 「私の遺書を書いてほしい」  と、彼女は言った。しめやかな梅雨(ばいう)の昼下がり、駄菓子屋の軒下にたたずむ錆びたテーブルセット。ひんやりとした雰囲気の舞台で、彼女はそう言った。  相手の目をはっきりと見て話す癖のある彼女でも、僕に遺書の代筆を頼むときに限っては、ばつが悪そうにテーブル脇のスタンド型の灰皿を眺めていた。  彼女は水色ストライプのワンピース型の制服を着ていて、緩やかに波打ったセミロングの髪が無造作に鎖骨の辺りまで垂れていた。湿気で重くなった髪が気に入らないのか、猫の毛繕いのように指先で毛束を弄んでいる。  駄菓子屋の裏にある高校の体育館からは、雨音のフィルターをくぐり抜けたクラシックピアノが聞こえてくる。コンクールに向けて演奏練習でもしているのだろう。 「冗談みたいだ」  僕はそう呟いた。あえて大人ぶった物言いをしたけれど、心の内ではドキドキしていた。彼女の話し方には、ちょっとした特別感があったから。カバンの中に隠していた飴玉をそっと握らせるような。 「冗談だと思う?」  彼女は頬杖をついたまま、僕の目を捉えた。大粒の小豆のような(まなこ)は、黒い煌めきをまとっている。 「君は死にたいの?」 「遺書がほしいの」 「どうして?」 「どうしても」  彼女は理由を詳しく話すつもりがないみたいだった。戸惑う僕を気に留めることもなく、彼女は手元に置いてあったホワイトサワー味のパピコを持って片方を握り込み、もう片方を僕に向けて差し出した。パピコは湿気を吸って大汗をかいていた。  僕は氷水のように冷たいパピコを握り、引っ張った。しかし、彼女はひっぱり返さなかった。彼女の細い腕がだらんと僕の方に釣られる。彼女の瞳に目をやると、それは明確なメッセージを放っていた。これは契約なのだと。少ししわの寄った唇が、この取り決めに大きな拘束力があることを物語っている。  でも僕は、そんな取り決めに気づかないふりをして、 「ちょうどアイスが食べたかったんだ。引っ張るよ、せーのっ」  パチリと子気味良い音を立てて二つに分かれる。結露の飛沫が錆びたテーブルに散った。  これが二人の「ゆびきりげんまん」だった。当時の僕はそのジョークみたいな儀式はどこか滑稽で、彼女の首筋についた小さなほくろは可愛いな、なんてこと思っていた。でも本当は、自分の遺書を書いてほしいなんて大真面目に言う彼女が少し怖くて、断る勇気もなかっただけなんだけど。  
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