3、もう一度友達になった

1/1
前へ
/6ページ
次へ

3、もう一度友達になった

 小学校卒業をきっかけに、涼音は東京にある中高一貫の私立校に進んだ。違う世界に行ってしまったんだ。そんな気がした。  一方、僕はその地域の子供ならほとんどが進む中学校へ進み、「とりあえず」でいつも名前が挙がる高校に入学した。黄緑色のブレザーがどうしようもなく鈍臭いことを除いて、至って平凡な場所だ。  小学校の卒業式の日に、私立校の立派な制服姿で僕の人生から立ち去った彼女は、高校二年生の梅雨入りが発表された日に、黄緑色の鈍臭いブレザーで帰ってきた。  僕のクラスのガタついた教壇の上に立つ涼音は、怯えているようだった。髪は少し短くなり、顔色は薄く、股下で手を結んで手提げを握っていた。誰に目を合わせるともなく、ありふれた自己紹介を口にした。その姿は朽ちるきっかけを失った廃墟の柱のよう。孤独で何も受け付ける気がないみたいだった。  僕は彼女の変わりように、驚くよりも不健全に(しび)れた。惨めな香りのする姿を衆人に晒している彼女はとても美しかった。誰もいない美術館の灰色の彫刻にうってつけ。  その二日後、僕は涼音と奇跡的な遭遇を果たした。それは長野の火葬場にある小さな給湯室での出来事だった。僕の祖父は農作業中に心筋梗塞で急逝した。僕ら一家はそれぞれの日常の脈を引きちぎって長野行きの夜行バスに飛び乗り、タクシーに乗り換えて祖父の家にたどり着いたのは早朝。田んぼが広がる盆地で、水面には薄い水色の空と木々の影が映りこみ、トンボがその境界を揺らす。  火葬場の給湯室は、狭くて生活感のないところだった。あらゆる器具と備品が整然と配列されている。火葬の煙によって人の営みが全てさらわれてしまったのかもしれない。僕はバターの銀紙をひらくような気持ちで蛇口を湯を捻り、飛沫でシンクを汚す。  蛇口から電気ケトルへと落ちる水の柱に人影が映った。入り口にはブラックフォーマルドレスに身を包んだ涼音が立っていた。 「驚いたな。宝くじに当たってもこんなに驚かない」 「......水、溢れてる」  電気ケトルが手元で水を噴き出していた。僕は慌てて水を止める。涼音もお茶を沸かしにきたようで、ケトルをもう一つ持ち出してきてシンクに置く。蛇口に伸ばした彼女の手を僕は制して、 「水、もったいないし」 「うん」  僕は水をなみなみと湛えたケトルを傾けて、涼音のケトルへとゆっくりと注ぐ。お互いの黒い袖がカーテンのように触れ合う。この間、僕たちは無言だった。 「ごめんね。僕の貧乏癖に付き合わせちゃって」  電気ケトルのスイッチを押しながら彼女の顔を見ると、心の奥が一瞬で冷たくなった。氷柱(つらら)が生えたみたいに。 「どうして、葬式なんてするんだろう。人が死んだ瞬間から忘れてしまえればいいのに」  彼女は両手で流し台のふちを握りしめ、肩を震わせていた。瞳からこぼれた水滴は、銀色のシンクにはじける。彼女は喪主だった。警察官だった彼女の父は仕事中の負傷で一ヶ月間の入院し、死んだ。  彼女の全身から滲む悲壮があまりにありふれていたので、かえって僕は冗談みたいな可笑しさを感じた。いいや、本当のところは泣いている人を前に足がすくんでいただけなのだけど。  僕は思い切って涼音の肩に手を乗せた。何か気の利いたことを話してやろうと口を開いた途端、 「悲しいね、僕も悲しいよ」  彼女は突然僕の手首を掴んだかと思うと、容赦なく半回転分ひねった。僕の体もつられてひっくり返り、流し台に仰向けで倒れ込む。 「最低最悪! また、首絞められたいの?」  涼音は目をぎゅっと閉じたままそう叫んだ。僕の耳元でケトルが沸騰している。  冗談は通用しなかった。じゃあ、信念で話すしかない。 「僕は君の悲しみを直ちに共感できるわけじゃないから」  僕は他人の痛みなんて分からないと決めているから、彼女の気持ちを察して同情しようなんて思わない。 「悩みを解決してあげる保証をする勇気は全くないけど、野次馬心で話を聞くことならできる」  手首の締め付けが緩む。 「僕は別に最低最悪なんて罵られてもへっちゃらだから」  話を聞いて頷くことだけが最善。一度決めた信念に則って大人ぶった口を聞いているけど、心は苦しかった。ふざけるなと一蹴されたら、僕は自分の殻の中身を確認せざるを得なくなる。 「本当に?」  彼女は小首を傾げる。僕は悪徳不動産屋みたいに頷いた、大袈裟に。  僕らは小学校の頃とは違う形で、もう一度友達になった。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加