4、取り返しのつかなさ

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4、取り返しのつかなさ

 僕たちは電車で片道一時間かけて街の文房具店に行った。ビルの7階から9階までを占領して、文房具以外の雑貨もたくさん売っているような店だ。上質な便箋とそこそこの万年筆を買うためである。彼女の死に目に置いてあるのが、安い茶封筒とボールペンで書かれた文字では美しくない。  売り場を何度も往復して、結局、紫陽花の描かれた和紙の便箋とLAMYの心地よい重さの万年筆を買った。全部で一万円くらいだった。  涼音は七階の化粧品コーナーで香りの強い柑橘系の香水を買っていた。病院に一ヶ月入院して死んだ父の遺体からは常に不健康な香りが漂っていて、自分も燃え尽きるまではいい香りでいたいから、らしい。  帰りの列車で僕たちはクーリッシュを吸いながら遺書について話した。向かい側の窓は雨粒がまだらに這っていて、隣同士で並んだ僕たちの顔を歪めて反射している。 「遺書の役割について調べてみたんだ」 「お世話になった人に感謝を伝え、自分の人生を見つめ直す」 「そう、それ。でもさ、そういうのってわざわざ遺書に書かなくてもよくないかな。生きてるうちに済ませればいいのに」 「取り返しのつかなさがないと、しっかり伝えたり受け取ったりできない」  僕は伝える相手に入っているのか、とは言えなかった。代筆とは彼女の背後につくことで、正面から向き合うことではなかった。  僕らは放課後、毎日のように学校から(ほど)近いスポーツアミューズメント施設に向かい、その一角に設置された小さなコーヒーショップで遺書を書いた。誰でも知っているチェーンの、テーブルが二つしかないような狭い店舗。入り口に近い方に僕たちが向かい合って座る。もう一つの方では、よく清掃員のおじいさんが濡れたモップを握って休憩していた。店の隣にはバッティングセンターのブースがあり、定期的に鋭い音が響いてくる。  涼音は指先で軽くこめかみに触れながらゆっくりと文言を語り、僕はそれを丁寧に紫陽花の和紙に書き留めた。僕たちのすぐ横を、バットを握った血色の良い少年たちが駆けてゆく。君たちのすぐ側で、僕らは死に際する儀式を行っているんだよ。    拝啓、は、いらないや。時候の挨拶、は、いつでもいい。宛名って、誰にしようか。......彼女の語りは波に揉まれるボトルレターのようで、便箋には断片的な文字と二重線が散らばった。 「これは苦言じゃないのだけど、遺書に書く内容はもうかなり明確に決まってるんだと思ってた」 「決まってるから」 「本当に?」 「少し迷いがあっただけ」  彼女は安いアイスコーヒーを飲み干して、僕の目を覗き込む。紙のコースターのように潤んだ目。背後で、一際鋭い打音が響く。
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