5、気球から飛び降りるか?

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5、気球から飛び降りるか?

 涼音の遺書は、父への感謝から始まった。男手一つで育ててくれたこと、東京の私立校に入れてくれたこと、そして正しさを教えてくれたこと。  次に、中学時代の同級生に向けた恨みつらみ。都合の良い正義を彼女に代行させたこと、後に裏切って彼女を断罪したこと。  僕は雨のように降り注ぐ彼女の言葉を、選り分けながら筋を与えていった。蓮の葉っぱが雨粒を真ん中に集めるように。  そして最後に、彼女は何の前触れもなく同級生から受けた性的陵辱の話を始めた。僕は梅雨明けの雷による直撃を受けたような気分になった。 「ちょっと、ちょっと待ってよ!」 「拘束プレイだよ、分かんないの?」 「いや、その......」  涼音はテーブルに身を乗り出して、僕の両手首を天板に押さえつける。 「こんな感じに、なすすべのないやつ」  彼女は手首を押さえつけたまま、体を左右に揺らして、僕の泳ぐ目線を先回りするように追った。僕は彼女のそういう姿を本人の前で夢想したくなかったし、前屈みに乗り出したワンピース型の制服を見て平然とする自信がなかった。 「わかった、わかったから。続けてよ、手短に」 「じっくり話すね」 「勘弁してよ、冗談じゃなくて」  僕は解放された両手で頭を抱えながらそう言った。彼女は陽気なカエルみたいに笑った。  ところがその笑いはだんだんと息の乱れのような様相を呈してきて、しまいには声の震えを失って、啜り泣きになった。その変わりようは百合の花が徐々に首をもたげるよう。 「遺書を書くことが何になるんだろう」  彼女は開封されていない紙ストローを握りしめながらそう言った。バッティングセンターからホームランを祝福する軽薄な音楽が鳴り響く。利用者の小雨のような拍手が続く。  僕は彼女に何か声をかけたくなった。本題を矮小化するような冗談でない言葉で、聞き手に徹すべしという信念に背きたい。僕は彼女の抱える深い渦潮の遥か上空で、双眼鏡を構えながら気球に揺られている。僕にバスケットから飛び降りる勇気があるか? 「あのさ......」  僕は息を吸い込む。じめじめした季節だというのに、喉は張り付くくらい乾燥している気がした。 「無理に書かなくてもいいと思うよ」  そんなこと誰だって言えるんだ。僕の言葉は彼女に届くわけがない。
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